もにも~ど

アニメーション制作会社シャフトに関係するものと関係しないものすべて

『もにラジ』第6回「『マギアレコード Final SEASON -浅き夢の暁-』大感想会」

シャフト作品を大いに盛り上げるためのラジオ『もにラジ』。第6回では『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 Final SEASON -浅き夢の暁-』を取り上げました。『もにラジ』で『マギレコ』を取り上げるのは3度目となりますが、今回はアニメ完結&パッケージ最終巻発売記念として再び前回と同じメンバーの北出栞さん(@sr_ktd)とabさん(@abacus_ha)をお呼びして、全体の総括を行っています。

※前回と前々回の座談会は下記リンクより読めます。

なお、本記事はアニメ版の総監督を務めた劇団イヌカレー(泥犬)氏書き下ろしによるアプリ版『マギレコ』における黒江の魔法少女ストーリーが解禁される前に収録したものです。

お便りとファンアートはあにもに(@animmony)のDMまで。どしどし募集中です!

◆参加者プロフィール

 北出栞@sr_ktd

あにもにさんが編集長を務めるシャフト論考集に『マギレコ』論を寄稿予定です!

 ab@abacus_ha

シャフトアニメしか観ないオタク。

 あにもに@animmony

シャフトアニメを東海道新幹線の移動中に観るオタク。ナーイスハッキーング。
シャフトファンのためのDiscordサーバーを作りました。

【結末を振り返って】

あにもに:今年4月にマギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 Final SEASON -浅き夢の暁-』(2022年)がついに完結しまして、あらためて作品全体の感想会を行いたく皆さまにお集まり頂きました。放送から収録まで少し時間が空いてしまいましたが、むしろあの結末を受け止める上でちょうど良い時間だったのではないかと思っています。各々語りたいことはたくさんあるとは思うのですが、最初に簡単に皆さまの感想を伺っていきます。北出さんはいかがだったでしょうか?

北出:ありきたりな言い方になってしまいますが、やはりとてつもないバッドエンドだったと思います。今日びここまでの悲劇的な結末をアニメで描くこともないよな、と……。それができたのは『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年)というブランドの力と、『マギレコ』が元々持っていた、本編に対する「外伝」という形式があったからこそだと思います。

あにもに:ソーシャルゲームのアニメは多くの場合はファンサービスや、良くても原作を補完するような映像化がほとんどだと思うのですが、たしかにここまで大胆にストーリーを変えて、その上悲劇にするというのは珍しい気がしています。

北出:身も蓋もないことを言えば、アニメ化はユーザーをアプリに誘導するためのプロモーションツールでもありますからね。ただ、こういう引いた立ち位置からの分析はオンエアから時間が経ったから言えるのであって、放送直後は完全に打ちのめされていました。特に黒江の顛末には……。

あにもに:黒江の話はまた後ほど具体的に検討しましょう。abさんはこの結末をどうご覧になりましたか? 放送直後にDMでも少しお話しましたが、バッドエンドという捉え方とは少し違うと仰っていましたが。

ab:前回の座談会でも少し言及したのですが、泥犬総監督がアプリ『マギレコ』の設定と『まどか』アニメ本編との辻褄を合わせようとしたのがアニメ『マギレコ』だったのではないかと思っています。

あにもに:たしかに『まどか』をだいぶ念頭に置いたストーリーでした。2nd SEASONにおける見滝原組の途中離脱はまさに象徴的です。

ab:今回のエンディングは、原作のアプリから捉えると完全にバッドエンドに見えますが、『まどか』シリーズ全体からすればそれほどバッドエンドだとは思いません。どちらかというと『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』(2013年)のエンディングに近い読後感がありました。『まどか』をハッピー寄りなビターエンドだとするならば、『叛逆』は完全にビターエンドです。それと似ているような気がしています。

北出:アプリ版にもこういったビターエンドになる初期プロットが存在していたと言われていますね。

ab:ええ。たとえば、アニメで死亡する結末を迎えたももことみふゆに関しては、アプリの初期にあったイベントストーリーで死亡することを匂わせるような伏線がありました。その後ゲームでは軌道修正をしたのか、そのようなストーリーにはならなかったわけですが。

北出:『マギレコ』のアニメは「原作ソーシャルゲームの映像化」ではなく、『まどか』の外伝アニメ作品として一から作り直したという風にも言えるということですね。

あにもに:泥犬さんが放送後にアニメ版は「アプリ版マギレコという唯一宇宙を円環内にその一部分を映し取って補完した形」とツイートされていました。正直、その解釈を適用するならば何でもありのような気がしてきますが、初期プロットのニュアンスを含めてアニメを通してやりたかったことは理解したつもりです。

ab:実際にどれくらい織り込まれて再構成されているかは分かりませんが、影響は確実に与えていると思います。

あにもに:自分はこの結末に関して、さすがにバッドエンドと言ってしまって良いだろうと思っています。正確にはアンハッピーエンドですかね。主人公であるいろはの目的がほぼ何も達成されないまま望まぬ形で終わってしまったので。あと、やはりシリーズ構成の観点から見ると1st SEASONからFinal SEASONまで1本のアニメとしてきちんと繋がっているようにはどうしても見えづらいところがありました。

ab:それは1st SEASONからですか?

あにもに:1st SEASONからです。それぞれのシーズンで別の作品のように見えてしまって。それはやりたいことの方向性もそうですし、映像的な部分においても当てはまると思います。シーズンごとに分けて観てみると一貫した描写がなされているし、やりたいことも理解できるのですが、作品全体の構成から見るとどうしても歯車が噛み合っていなかった部分が少なからずあった。もし2nd SEASONとFinal SEASONが全12話で連続で放送されていたのなら、おそらく受け止め方も相当違ったとは思うのですが。

北出:スタッフクレジットも2nd SEASONからシリーズ構成に高山カツヒコさんが加わっているなど変化がありました。

あにもに:テレビアニメである以上は集団制作的な側面が当然あるとは思うのですが、様々な水準においてその乖離が見て取れた、というのが個人的な第一印象になります。

北出:あにもにさん的には2nd SEASONとFinal SEASONの間にも断絶があるといった印象なんですか?

あにもに:自分はあるように感じましたね。1st SEASONと2nd SEASONほど大きな転換はないにせよ、2nd SEASONとFinal SEASONの間にも違いを感じました。変な言い方をするならば、1st SEASONの終わりと2nd SEASONの終わりで、それぞれストーリーが分岐したようにも感じました。そう捉えるとモチーフや描写が不連続的であってもある程度納得できるものがあります。これは完全に自分の印象論に過ぎませんが。

【かけがえのない絶望】

あにもに:さっそくFinal SEASON最大の焦点となる黒江の話をしましょう。黒江は1st SEASONから登場したアニメオリジナルキャラクターでしたが、ずっと出番が与えられないまま、2nd SEASONでようやく本格的に描かれるようになりました。マギウスの翼の黒羽根として再登場しつつ、いろはとの交流を通じて徐々に打ち解けていったかのように見えたのですが、最終的には魔法少女として絶望してしまい、魔女化してしまった彼女をいろはが自らの手で殺すことになるという悲劇的な結末を迎えてしまいました。

北出:黒江は2nd SEASONでは「環さんや七海さんみたいになれるかな。私、そうなりたい」と言ってドッペルを発動させる描写があったり、魔法少女である自分に対してかなり前向きになったかのような姿を見せていました。しかしみかづき荘の面々に加わろうとすると過去の幻影が現れて「あそこに入れると思ってるの?」と囁かれ、二の足を踏んでしまうというのがFinal SEASONへの引きとなっていました。

あにもに:あの過去の幻影はストレートに彼女の内なる罪の意識だったということですよね。

北出:自分が心底凹んだのはそこです。結局黒江という人間は過去に足を取られていて、「なるべくしてああなった」という風に描かれたことがつらかった。

あにもに:いろはは黒江のことを救おうとしますが、やちよさんが鶴乃に対して説得しようとして失敗したような説得の仕方と似ていて、彼女に声を掛ければ掛けるほど、黒江は病んでしまいます。この病は死に至るもので、2nd SEASONで描かれたような鶴乃の救済のようにリトライは効かず、いろはが魔法少女として正しさを発揮すればするほど、黒江は退路を塞がれたような思いになり、最後には魔女化してしまいました。

北出:なぜ黒江がいろはの言葉に絶望するのか……そこには「主体的な意思」をめぐる非対称性があるのだと思います。いろはは「妹を救いたい」という強い意思で魔法少女になったので、たとえ魔女化の運命を知ったとしても「そう願った自分」に対する自己肯定感を支えに立ち直ることができる。一方の黒江は、願いからして「なんとなく好きな人と付き合いたい」というもので。回想シーンで描かれた過去の話でも、目の前で助けを求めていた魔法少女に対して曖昧に言葉を濁すだけでした。黒江は主体的な意思を持って行動できない自分のことが、本当に嫌いだったんだろうと思います。現在の自分はどうしようもなく過去に規定されていて、そこから違う自分にはなれない……そういう種類の絶望があるんだと思うんです。

『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 Final SEASON -浅き夢の暁-』
第3話「いつまで魔法少女を続けなきゃいけないの?」

あにもに:アニメには出てきていないキャラクターも含め、『マギレコ』に登場する魔法少女の中には、たとえキュゥべえと契約していなくても、どのみち不幸な人生を歩んでいたのではないかと強く感じるキャラクターがたくさんいますが、黒江に関してもそういう鬱々とした雰囲気を感じます。

北出:ただ、たとえマイナスな思考からであっても、『マギレコ』に登場するほとんどの魔法少女は主体的な意思を持って契約している。自分の運命を差し出してまで叶えたい想いがあり、「魔法少女ストーリー」を読むことにはそういうカタルシスがあるから我々はガチャを引くわけですが(笑)、黒江はそうではない。最終回でいろはが「魔法少女になれて良かった」ということを言いますが、あれはほとんどの魔法少女が真剣に願いを叶えた(ことをプレイヤーが知っている)アプリ版で発せられたのだったら説得力がある。しかしアニメでは圧倒的に各魔法少女の願い(=魔法少女ストーリー)が描かれていないので、とても空疎に響いてしまいます。むしろ黒江という存在がいることで、「『なれて良かった』と言える魔法少女もいるかもしれないけれど、そう言えない人もいる」と感じられてしまう台詞になっていた。

あにもに:魔女化した黒江を殺したシーンの直後だったこともあり、いろはの立ち直りの早さとかもいろいろと考えてしまって、あの言葉が視聴者に響くものになっていたかと言われたらたしかに微妙なところです。これは一挙放送の弊害とも言えるかもしれませんが……。

北出:黒江に必要だったのは、僕らが魔法少女ストーリーを読んで魔法少女のことを理解するように、誰かに自分のストーリーを語り聞かせるということだったんじゃないかと思います。対話があれば、いろはもいたずらに「頑張れ、頑張れ」とだけ言うようなことはなかったと思うんですよ。実は自分もかつては黒江のように、自己肯定感の極端に低い人間でした。でもいろいろな人と関わることを通じて、人生は他人と比べるようなものではなく、自分自身を好きになれるかどうかが重要なんだということに気付くことができたんです。自分にも黒江のような時期があったからこそ、そして現在はいろはのようなメンタルになることができているからこそ、現在の自分が過去の自分に対してとても残酷なことをしているようにも思えてつらかったです。

あにもに:abさんは黒江についてどう分析しますか?

ab:黒江は意中の人と「付き合いたい」という願いが叶った後に、別れる際にブロック機能を使ってまで相手との会話を拒否するという描写がありました。結局、彼女の願ったものは何も残っていなくて、代わりに大きすぎるデメリットを今後ずっと抱え続けることになる。手を取り合う相手も誰もいなく、いろはとは対極的なキャラクターになったのではないかと思いました。

あにもに:黒江が願ったことの対価を考えると、魔法少女の運命を受け入れるのは重すぎますよね。「いつまで魔法少女を続けなきゃいけないの?」という切実な問いは彼女が明かした数少ない本音だったと思います。

ab:いろはの優しさの犠牲者として黒江を描いてみせたことは結構良かったなと思いました。アプリの第8章、いろはたちがホテルフェントホープに潜入するシーンで黒羽根と対話するシーンがありました。いろはは「みんなで手を取り合えば何とかなる」ということを繰り返し言うわけですが、黒羽根としてはそんなことはできないからこそマギウスの翼として活動しているわけで。これは両者の立場の違いが明確に表れているシーンで、アプリの第1部ではそれ以上のことを描けなかったのですが、そういったいろはのポジティブさの弊害が全面的に出たということは言えると思います。

あにもに:アニメではいろはのある種正し過ぎる姿勢といったものに対する批判的な描写が繰り返し描かれていました。Final SEASON 3話は特殊エンディングで画面上にテロップが映し出されますが、「私たちは正しさに殺される」といろはに対する警鐘のような文言が描かれていました。今にして振り返ってみると、1st SEASONの頃から学校内の描写でやたらと道徳的な文言がプロパガンダのように壁中に張り付けられていたり、ある種政治的正しさに対する批判的なメッセージとも取れるような描写がありました。

ab:いろはには強い信念があったからこそ「魔法少女になれて良かった」という台詞が言えるわけですが、願いを自ら手放し、差し出された手を戒めかのように拒んでしまう黒江にいろはと同じような覚悟を強いるのは、かなり残酷だなとは思いました。

北出:同じ「誰かと付き合いたい」という願いだったとしても、それを直接的に願うのではなくて、「その人と付き合えるような自分になりたい」とか、「自信のない性格を直したい」とかいった願い方もできたはずで。例えば、ももこの願いは「好きな人に告白する勇気が欲しい」というもので、それが「激励」という固有魔法に昇華されました。

あにもに:奇跡の願い方にその人の人生、ひいては生き方すべてが反映されてしまうある種残酷とも言える話です。魔法少女になる前の人生が結局一番大事であるという……。

ab:黒江がももこのような願い方をできていたら、多少自分の人生に納得ができていた可能性はありますね。

北出:そういう願い方ができなかったところに黒江の悲劇性があると思うんです。少し社会批評っぽい読み方になってしまいますが、現代では「親ガチャ」ということが言われたりして、生得的な条件で人生が決まっているといったような諦めの雰囲気が蔓延していますよね。黒江の話は、そんな現代の気分を捉えている気がして、そういう意味でもつらかったです。

あにもに:黒江に関しては、マギウスの悲願であった「魔法少女の解放」が仮に完璧な形で実現したとしても、彼女の鬱屈とした想いは晴れなかったのではと考えています。それは彼女の絶望が魔法少女やマギウスとはまったく別の次元の、もっと手前側にあったからだと思っています。

【夢と革命】

北出:Final SEASONで手放しに良いと思えたのは、マギウスの誕生に焦点を当てた1話と2話です。特に1話は回想ということもあり大部分が原作の忠実な映像化になっていて、いろはのために何とかしたいといううい・ねむ・灯花の姿は、観ていて素朴に泣けてしまいました。キュゥべえとどういう契約をすれば一番良いのか、といったことを三人が研究している描写も原作を補完するものでとても良かったです。

あにもに:普通なら契約する前に魔法少女の真実を知ってしまったら、その時点で契約を断念するのが自然だと思うのですが、そこが灯花たちの天才たる所以で、逆にキュゥべえのシステムを乗っ取ろうとする。それで言うとアプリには無かった灯花がねむをビンタするシーンは感動的ですらありました。

北出:「あの流れで柊ねむがあんなことを言ったら、里見灯花はビンタするだろう」と思いますよね。アプリで培われてきたキャラクター像に対する解像度がすごかったです。

あにもに:灯花がすべての記憶を取り戻してもなお計画を止めずに遂行しようとする、という一連のシーンですが、彼女のキャラクターを考えると腑に落ちる展開です。アプリとは違う点ですね。

ab:実はそこが自分のアプリに対する不満のひとつだったんです。アプリでは灯花が記憶を取り戻すと、普通の良い子になってしまうだけでしたので、どうしても違和感がありました。アニメでは記憶を取り戻したあとにねむに怒るシーンが追加されたわけですが、灯花の人格をずばり捉えていると思います。

あにもに:「記憶の戻った私が計画を諦める可能性を危惧するのは当然だよ。そのリスクを計算して事実を隠したねむの選択は完璧に正しい!」という台詞もよく出てきましたよね。その後、ういの魂が存在したことを証明しよう、といったことを話していて、いろはが「いやどうしてそうなるの? 何を言っているの?」という表情で完全に置いてけぼりになっている。

ab:そこは視聴者のリアクションとリンクしている仕掛けですね。え、ここで仲間になる展開じゃないんだ、と。まさに灯花だなぁという感じで。

北出:一部でネタ化されている「目玉焼きが生きてるみたい」という2nd SEASONのいろはの台詞がありますが、ここのシーンはまさに灯花とねむが「生きて」いましたよ!

あにもに:泥犬さんが言っていましたが、Final SEASON 1話のサブタイトルにもなっている「僕たちは失敗した」の元ネタは森田童子なわけです。ねむの一人称である「僕」を森田童子の歌詞にリンクさせてみせたことも驚きですが、それ以上に重要なのはマギウスをめぐる物語に学生運動のモチーフを読み込めるということだと思います。

北出:灯花が学生運動的なものに傾倒していった理由として、魔法少女の声を受け止め過ぎてしまったから、と説明されていました。前回の座談会でも話題になった「灯花ってそんな正義感が強いキャラだったっけ?」という疑問の答えがここにあったわけです。その魔法少女の声がツイート群のようなものとして表現されていたのにも、現代批評的な観点を感じましたね。

ab:あのSNSを彷彿とさせる描写は見事でした。

あにもに:運動的な描写と言えば1st SEASONで治安の悪い地域として描かれていた工匠区がありましたが、そこにも反対のスローガンがたくさん掲げられていたりしました。また、森田童子と言えば『みんな夢でありました』という楽曲がありますが、「浅き夢の暁」の「夢」もここから来ているのかなとすら思えてくる(笑)。もちろんこれは冗談ではありますが、『マギレコ』をある種左翼的な物語として読み替えることは全然可能だと思います。とにかく灯花とねむの関係性の描写は見事でした。

北出:灯花の傍らで黙ってつき従っているねむの心中が、ただ成り行きを見守っていただけではないんですよね。

あにもに:「灯花はういの存在に関係なく計画を進めた」「新しい正義を見つけて行動を始めた」ことが、ねむにある種の希望を与えたと言うんですよね。非常に誠実な描写です。

『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 Final SEASON -浅き夢の暁-』
第2話「やがて消えゆく少女たちよ」

北出:すべての記憶を保持しつつも良識人として振舞っているねむは、2nd SEASONまでは単に灯花のストッパーとしての立ち位置のように見えたんですが、実は自分自身のエゴも大いにあったわけです。灯花とねむはいつも喧嘩ばかりしていますが、天才すぎるお互いの一番の理解者でもある。二人の独特の関係性を見事に捉えていました。

ab:今見返していて気付いたんですが、こういった物語的な転換の仕方としては、『叛逆』の終盤を思い出します。ほむらが円環の理を拒否する展開の裏切り方と似ていますね。

あにもに:原作では第1部の後日談として「ユメミルサクラ」というイベントストーリーがあって、そこで戦後処理的にマギウスの罪を問う裁判が描かれるのですが……ここでは詳しく触れませんが、政治劇としては首を傾げざるを得ない茶番だったので、アニメの描き方の方がよほど誠実さを感じられます。ただ、灯花の黒羽根たちに対する扱いなどを見ると搾取しているようにも見えて、やや乱暴かなと感じる部分はありますが。記憶を取り戻した後でも多少の犠牲は仕方がないと言い切るので、そこは彼女なりの考えがあるんでしょうね。

北出:しかし、同じマギウスでも灯花やねむは自分なりの思惑があったことが厚く描写されていた一方、アリナの思考回路に関してはまったく分かりませんでしたね。

あにもに:そもそもFinal SEASONでも一向に出てこなかったので、途中本気でこのまま登場しないのかと不安になりました。

ab:アリナに焦点を当てたエピソードがもう1話欲しかったというのが正直な感想です。アプリとも全然違うキャラクターになっていました。

あにもに:竹達彩奈さんの演技からして全然違いますね。音響監督の指示もあると思うのですが、結果としてシーズンごとにどんどんアリナのキャラと演技が暴走している感じがして、そういうところもまた断絶を感じます。最後は急にラスボス的に出てきて、「全人類魔法少女化計画」という『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)っぽいことを言っていました。

ab:「全人類魔法少女化計画」に至るまでの展開があと1話くらい欲しかったなと思いました。泥犬さんなりの考えがあることは承知しているんですが、どう考えても尺が足りていない。

あにもに:オンエアを観ている最中は字面の面白さが先行してしまって、シリアスな場面なのに笑ってしまいました。ただ、あらためて考えてみると結構興味深い発想ではあります。

『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 Final SEASON -浅き夢の暁-』
4話「誰も知らない、私たちの記録」

北出:泥犬さんは放送後、魔法少女が不当に搾取される存在になっているのだとしたら、全員を魔法少女にしてしまうことで、ある種の平等を実現するのもひとつの革命の在り方である、といった説明をされていました。ただ、それだったら強制的に魔法少女にされて苦しむ一般人の様子をもっと厚めに描いて欲しかったというのはありますね。

あにもに:アニメだと、単純にラスボス的に出てきて大仰なことを言う悪役のポジションになってしまっていました。アリナが持っているキャラクターとしてのポテンシャルを考えると、非常にもったいないです。

北出:シーズンごとに断絶がある中でそれを無理矢理にでもまとめてくれるデウス・エクス・マキナとしての役割を担っていたと言うこともできるし、アプリからしてものすごくキャラが立っていてファンも多いし、(アニメでは最後に絵を贈ったということになっていた)御園かりんとのカップリング需要もある。彼女一人に役割が背負わされすぎた結果、フランケンシュタインの怪物のような「人造物の悲哀」すら覚えさせる存在になっていました。

あにもに:芸術家としての彼女の描写はほぼなく、単にクレイジーさが強調されていましたね。アート=クレイジーというイメージが乱暴に結び付けられていて、アート観に対する批判ができそうなくらいアーティストという属性に頼っていると言えると思います。だからこそFinal SEASONでは最後に登場してある種まとめる役割を担うことができたのだと思うのですが。

北出:アプリのアリナとホーリーアリナの魔法少女ストーリーはアーティストとしてのアリナを掘り下げていて素晴らしいだけに惜しいですね。

あにもに:それでいうとアリナがあの病院で入院していた理由もアニメ版だと明かされませんでした。それと最後にアリナが自身の作品をかりんに贈るというシーンがあったのですが、どういう解釈をすれば良いのか正直分かりませんでした。

ab:アリナが入院していた理由は尺的な都合もあったかとは思うのですが。アリナの性格的にそういうことをするのかどうかはともかくとして、かりんに関しては「自分の作品を評価してくれる人の手に届けたい(着払いで)」というある種アーティスト的な作品への想いだと自分は解釈しています。ただ、やはり1話くらいアリナについて掘り下げて欲しかったです。

あにもに:尺の都合ということで言えば、これは過去の座談会でも話題に挙がった点ですが、2nd SEASON 1話は文句なしに素晴らしかった一方で、シリーズ構成全体から考えると……。もちろんあの1話がすごかったということを撤回するつもりはありませんが。

北出:このシリーズにおける見滝原組って結局何だったんだろう。

あにもに:「今までにないほど上手くいってる」とほむらが言っていましたが、最終的にはとんでもない大惨事になったというのが……。ここに関してもやはり断絶があるという言い方ができると思います。あの時点ではたしかに上手くいく可能性はあった。ただ、あそこで分岐しているんだ、という。

北出:『まどか』10周年企画とかもあったので、メタ的に見るとどうしても企画ありきで挿入されたエピソードという風にも思えてしまう。

あにもに:見滝原組がFinal SEASONで多少なりとも出番があればまた別だったのかもしれませんが、最後に一瞬だけ映るだけでした。結果ほむらはループすることになりました。

北出:泥犬さんの「円環内に写し取った〜」という説明は、アニメはアプリの二次創作ですと言っているようなものですよね。さやかとほむらが手を取り合える可能性を、シャフトとオリジナルキャストが豪華な二次創作として見せてくれたと思えば価値があったと思います。

あにもに:まったく同感です。そういう世界もあったんだ、という希望は感じられます。

【失敗の物語】

あにもに:自分は前々回の座談会で好きなキャラクターとしてみふゆとももこの名前を挙げたのですが、見事なフラグ回収となってしまいました。この二人が手を取り合って魔法少女のドッペル化を止める展開はまったく読めませんでした。ただ、ここに関しては、一体どういう能力が働いているのか原理が分からず、どうしても唐突な印象は拭えなかったなというのが正直な感想です。

北出:物語を悲劇的にするために、動かしやすい二人を犠牲にする展開を作ったのではないかと邪推してしまいます。

ab:みふゆとももこに関しては自分は逆に納得しています。自分はアプリの第2部は追いつけていないのですが、少しだけプレイした印象として、ももこはともかく、第2部におけるみふゆの存在意義は何だったのかという印象がありました。第1部のみふゆはダムゼル・イン・ディストレス(囚われの姫)的なポジションだったように、アプリではいろはによって説得されて解決というわりかし典型的な筋書きだったのに対して、アニメではきちんと最後の見せ場が用意されていたので良かったのではないかと思います。このタイミング以上に退場させられる場面はあったのかという点も踏まえて。

北出:みふゆは責任感もあるし、マギウスの計画によってドッペル化が進んでしまった側面があるので分かるのですが、ももこが一緒に手伝うというのは……。

あにもに:みかづき荘の一員としてみふゆを手伝ったということでしょうね。とはいえ、またもや置き去りにされた鶴乃が気の毒過ぎます。

北出:銀河鉄道の夜』オマージュは悪くなかったですけどね。ジョバンニは、あれが死後の世界の鉄道だとは思わなくて、カンパネルラが死んだことに気付かない。やちよ=ジョバンニで、カンパネルラ=みふゆとももこ、という図式になっていました。

あにもに:死者という観点では、ういについても言及しておきましょう。自分はFinal SEASONを観ている最中、どうやらういがどうやっても救えないようだ、ということに気が付いて、「ああ、なるほど。ういのことは救えないけれど、その代わり黒江を助けるんだ」という展開だと思い込んで勝手に納得していたのですが、全然違いましたね。ただういが救えなかったという結末に関しては、それほど絶望はしませんでした。精神世界で対話するシーンということもあって、会話の意味は読み解きづらかったですが。

北出:ういがただ助けられるための弱い存在としてでなく、確固たる自分の意思を持った存在として描かれていたのが説得力につながっていたと思います。対して、アニメのいろはの言葉にはどうも重みがない。これは前回も言いましたが、いろはの特徴はアプリにおけるプレイヤーキャラクターという性質も反映した「空っぽ性」にあると思うんです。ただ、アニメは主人公が自発的に動かないと物事が展開しないので、そこで「お姉ちゃんキャラ」みたいなものを付与されて……結果黒江も絶望させてしまった。

あにもに:その観点から言うと、ういと黒江を失った後の4話のいろはがキュゥべえにガチギレするシーンはかなり良かったと思います。最終話で見せる表情じゃない(笑)。もっと早くあの表情が見たかったですね。

『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 Final SEASON -浅き夢の暁-』
第4話「誰も知らない、私たちの記録」

北出:あそこで初めていろはが「キャラ」から「キャラクター(人間)」になった感じがしました。Final SEASONを観終わった後に、黒江ショックと同時に妙な達成感もあったのですが、終盤まで掴めなかったアニメ版のいろはをようやく掴めた、ということに対してだったのかもしれません。

ab:いろはは妹を失って、「お姉ちゃん」としてのアイデンティティを喪失することで初めて一人の人間になった、とも言えるわけですよね。

北出:まあ、その後もいろはは灯花とねむに対してお姉ちゃんっぽく振る舞うのですが……。

あにもに:いろはが怒っているシーンから最終話が始まり、自己と葛藤するシーンが描かれる。その後チームみかづき荘と合流するという流れでしたね。

北出:やはりその辺りはどうしてもいろはの切り替えが早過ぎると感じてしまいました。みかづき荘のみんなが集まってきて5人で手を繋いでコネクトとかしているのを見ながら、「でもそれは黒江ができなかったことなんだよな……」と。

あにもに:いろははなぜ黒江は絶望したのか、自分の言葉でどうして彼女を救えなかったのか、ということを考え続けて生きていくと思うのですが、黒江がどうして魔女化するときに満足そうな顔をしていたのか、あそこの表情の意味をきちんと考えないと、これからもいろはは同じ失敗を繰り返すでしょうね。

ab:「失敗の物語である」ということはこれまで繰り返し強調されていましたが、マギウスが失敗する物語だろうと思っていたら、まさか全員が失敗するものだったとは予想していませんでした。誰がこの物語の結末で得をしたと言えるんでしょうね。

北出:アプリで大きな軸となっている神浜の東西問題がそれどころではなくなって、みんなで助け合っていかざるを得なくなったということは言えるかもしれません。

あにもに:神浜東西問題は今回のストーリーを振り返ってみれば、オミットして正解だった気もします。だからこそ1st SEASONで匂わせるような伏線もいらなかったかなと思います。8話でやちよが東のリーダー十七夜さんに電話で相談をするシーンです。

北出:スタッフの罪滅ぼしなのか何なのか、最終局面でみかづき荘が横並びになっているカットになぜか十七夜さんが入り込んでいたりしました(笑)。

あにもに:スリードと言えば、黒江の影として出てきたキャラクターがいろはそっくりのカラーリングの少女で、何かしら関連性があるように読み解ける感じでしたが、本当にそっくりなだけだったというのもありました。

北出:今後、アプリの方で黒江の魔法少女ストーリーが公開されるらしいですが(編注:2022年6月27日に公開)、後からストーリーが実装されるという今までにない形式です。ちなみにアプリでは最近アニメver.というのが実装されていますが、黒江はただの「黒江」としての実装なんですよね。アニメver.の存在自体が、「アプリの世界に存在している黒江はアニメの黒江とは違う顛末を辿りますよ」という符牒なのかもしれません。

あにもに:それで安心できるのかという問題はありますが……。そっちはそっちでどういう結末を迎えるのか。

北出:アニメの放送後にシャフトの公式ツイッターアカウントが黒江の魔女化した姿とアリナの最終形態にまつわる設定資料を公開していましたが、アリナの設定が長文で記されているのに対して、黒江はたった2行しかありませんでした。

ab:「ヨダカの魔女。その性質は逃避。泥の翼を持つ醜い鷹」って……。

北出:いやあ、本当につらい……。

あにもに:黒江本人は魔女になってしまいましたが、彼女自身そのことに絶望したかと言えばまた違う話ですよね。むしろ、ようやく魔法少女としての人生から降りることができたのだと安堵すらしている。

『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 Final SEASON -浅き夢の暁-』
第3話「いつまで魔法少女を続けなきゃいけないの?」

北出:「あなたと出会う前に戻れる」という台詞は最初「ループ展開か?」と思いましたが、噛み締めて思うとそういうことかと。いろはに出会っていても出会っていなくても、自分の人間性はそれこそ魔法少女になる以前に決定されていて、それを受け入れることでしか前に進めなかった。だから「黒江が魔女になってしまって悲しい」と簡単に視聴者が言うことは許されない。黒江が最後に晴れやかな表情をしていたことを僕たちは重く受け止めねばなりません。

あにもに:魔女になるだけならまだしも、バラバラになりますからね。案の定ツイッターの黒江推しはみんなショックを受けていました。

ab:黒江は助からないだろうなと自分は思っていたんですが、アプリで絶賛ガチャのピックアップ中のキャラクターを殺すというのは考えられなかったので驚きではありました。

北出:そうしたつらい展開への反作用として興味深かったのは、『マギレコ』のアニメをすべて撮影のための演技として捉える二次創作のムーブメントが発生したことです。

あにもに:#アニレコNGシーン合同 ですね。アニメで描かれたシーンを撮影に見立てることで、ファンが心の安定を図っているようで現象として非常に興味深かったです。特に『マギレコ』のアニメは元々演劇的な要素が強いことも相まって、放送後しばらくツイッターで流行していました。こうした受容はループものということと併せて考えるとさらに面白いかもしれません。

【無名魔法少女たち】

あにもに:エピローグに注目したいと思います。最後は劇中で死亡したキャラクターたちの死者の声がナレーションで語られます。

北出:過去の時間軸で死亡したメルとかなえも含めて、死亡した順番で語られるんですよね。

あにもに:最後にいろはが喋るので、いろは死亡説といったものもネットでは話題になりました。とはいえ、ここに関してはあまり本質的な論点な気はしませんが。

北出:そこは黒江の名前(ファーストネームなのかラストネームなのか設定がない)と同様で、どちらとも読み取れるように作ってはいるんだと思います。

あにもに:エピローグは寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』(1971年)のオマージュです。映画の冒頭で主演の男性がカメラに向かって5分ほど「俺の名前は誰も知らない」と観客に語り掛けるのですが、その文脈を踏まえると『マギレコ』ではナレーションで「私たちの◯◯は誰も知らない」と視聴者に訴えているんですよ。

北出:語られない物語としての無名の人たちがいる。

ab:だから「レコード」なんでしょうね。革命は失敗したら何も残らないわけなので。語れることはあっても、社会に与える影響とかはほぼないと言っても良い。どんな犠牲があっても、最終的にはただの記録の1ページになってしまう。

あにもに:キュゥべえの言葉にもあるように「希望と絶望」がテーマとなっているのが『まどか』でした。しかし『マギレコ』のアニメ版に関しては、希望や絶望といった軸で捉えることは必ずしも正しくないと思っていて、むしろ「少女の怒りを忘れるな」といったニュアンスが強いと思っています。最後にいろはが怒りを見せたことが象徴的でもあるのですが、魔法少女たちの苦しみや怒りが中心的なテーマになっている。その中でも「無名魔法少女たちの怒り」はとても重要だと思っています。個人的には最後のいろはの後ろ姿からは、いろは個人だけでなく、すべての魔法少女の怒りを感じます。

『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 Final SEASON -浅き夢の暁-』
第4話「誰も知らない、私たちの記録」

北出:黒羽根問題という形で前回の座談会の方では取り上げていましたが、最終的に全員が失敗したことによって、みんな結局無名の存在なんだということが明確になりましたね。

あにもに:アプリでは「匿名希望」という黒羽根のキャラクターが出てきますよね。当初、黒江があの匿名希望少女を象徴しているという見方もできたわけですが、黒江の回想シーンの中でさらに無名の少女が出てきたこともあって、つまり「みんな匿名であり、無名の誰かである」ということが重要だと考えています。

北出:そう考えてみるとすっきりしますね。自分がアプリ版を好きなのは全員がある種「有名」というか、自分自身の人生を生きているからという面があります。魔法少女になるに至った理由にもドラマがあって、それぞれの人生があって、そこが好きなんです。無名/有名の軸で見るとたしかアプリとアニメは裏表で、アプリの第2部では今まさにすべての魔法少女を無名な存在に還す「宇宙の意思」なるものがあるのかないのかというところで、SF的に理屈付けをしようとしている。

あにもに:完全な無名問題を描くことは原理的に困難で、キャラクターものである限りは、ネームドキャラがいるわけですよね。

北出:無名者の物語を描こうとしても、全員がピクトグラムのようなモブキャラクターだと、さすがに物語を展開できない。「苗字か名前か分からない」が公式設定にしても、黒江という呼び名はあるわけで。無名者の物語を描くことの困難さそのものにチャレンジしようとしたのだとすれば、今回のアニメはひとつの達成だと思います。この救いのないバッドエンドも、無名にまつわる主題を突き詰めようとした結果なら納得がいきます。

あにもに:無名性は『まどか』本編では描けなかった主題です。無名戦士ならぬ無名魔法少女たちの物語。

北出:ループによって「まどか」という固有名を特別なものにしていって、それによって因果の力が集まってすべてがひっくり返るという話が『まどか』でした。シリーズの起源からして、固有名を巡る問題にならざるを得ない構造なんです。

あにもに:最終的に宇宙の法則を塗り替える世界改変を引き起こすので、話としての規模は相当大きく感じるかもしれませんが、実際はものすごくミニマムでクローズドな話ですからね。ここら辺の話は当時のスタッフインタビューでも語られていた点です。

北出:『マギレコ』はソーシャルゲームの持つポテンシャルとして、たくさんの魔法少女が出てくるからこそ無名の人たちを描くことができました。ただし、どうしてもソーシャルゲームは運営型であることと、それぞれのキャラクターに多くのファンがいるので、簡単にキャラを殺すことはできない。アプリでは難しい、「いっそ全員を無名に返す」ことができたという見方はできます。

ab:アニメ本編の外伝であるからこそ、アニメ本編より目立ってはならないという部分もあったんじゃないかと自分は少し思いました。外伝として全うしたとも言えますが。

あにもに:そう考えると希望がないからと言って、それが直ちにバッドエンドであると短絡的に結びつけるのも違う感じがします。無名をめぐる問題を切実に訴えることができたという意味では十分達成したものはあります。

【おわりに】

あにもに:1st SEASONから数えると放送期間という意味では2年でしょうか。放送が何度か延期されたこともあり、体感的にはもっと長く感じましたが、無事完結できて本当に良かったです。シリーズ通して賛否両論あったかと思いますが、ひとまずアニメスタッフにはお疲れ様でしたと言いたいです。自分は『マギレコ』はシャフトの偉大な達成のひとつだと思っています。

北出:アニメ『マギレコ』の視聴体験はコロナパンデミック後の期間とほぼ重なっているんです。2020年1月クールから始まって、1st SEASONのホーリーマミとさやか戦のシーンの頃は緊急事態宣言下で観たのが強く記憶に残っています。

ab:コロナを含めてスケジュールの問題などはあったかと思います。細かい部分は最初から決まっていたと思いますが、そこにたどり着けるかは手探り感がありましたね。

北出:アニメ化された意義をアプリとも対応させつつ再認識できたので、今日はとても良い機会でした。テレビシリーズのアニメの良さはやはり共時性があるという点ですよね。3回にわたって皆さんとこうした議論もできたし、いろいろと発見もあって、本当に楽しませてもらいました。

あにもに:皆さまありがとうございました!

 

『もにラジ』の過去回は下記リンクにまとまっています。

【告知】

本ブログ「もにも~ど」が、去年に引き続き今年のコミックマーケット100にサークル出展します!前回の『号外もにも~ど』を遥かに超えるボリュームのシャフト論考集を目下作成中ですので、何卒よろしくお願いします。

詳細は追ってツイッターとブログでお知らせします。ちなみにサークルカットの少女が着ている制服は、もちろん黒江の学校のものです。