シャフト作品について毎回いろいろなオタクをお呼びしながら様々な角度から掘り下げている『もにラジ』ですが、第4回は『マギアレコード』を取り上げました。2021年7月新作アニメの『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-』1話の放映直後に、北出栞さん(@sr_ktd)とabさん(@abacus_ha)と一緒にオタク・雑談をしまして、前半では原作にあたるゲームに関する話、後半でアニメの2期1話について主に話しています。なお、2話の放送前に収録したものなので、2話以降の展開やOP・EDについての話は含まれていません。
アニメ2期のネタバレとなる要素は極力カットしていますが、原作ゲームのテーマに関わる話や、アニメ未登場の魔法少女の話などをしているので、気になる方は注意してください。
お便りとファンアートはあにもに(@animmony)のDMまで。どしどし募集中です!
◆参加者プロフィール
北出栞(@sr_ktd)
『マギアレコード』にこそいま一番読むべき物語が描かれている、と信じてやまないオタク。好きなキャラクターは美樹さやか、和泉十七夜、時女一族(箱推し)。
海外のオタク。また呼ばれました。
好きな路線は中央線。
あにもに(@animmony)
シャフトアニメを経過観察中に観るオタク。グッド。
好きな帰り道は雨上がりの帰り道。
【はじめに】
あにもに:本日はよろしくお願いします。ついに『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-』(2021年)1話が放送されまして、あまりの内容に思わず卒倒してしまったので、急遽ですが感想会をやろうと思い皆さまにお集まりいただきました。
ab:よろしくお願いします。
北出:よろしくお願いします。今回呼んでいただいてとても嬉しいのですが、僕はまったくシャフトオタクではなく、単に『マギレコ』のオタクということで、いきなり基本的なところからで恐縮なのですが……そもそもの前提として、新房昭之監督とシャフトの関係性がどういうものなのか知りたいです。
あにもに:今でこそシャフトのブランド戦略として「新房シャフト」とワンセットで製作側からもファン側からも語られることが多いですが、新房監督は厳密に言えばフリーの演出家です。新房監督がシャフトで監督をされるようになった初期の時代は、中村隆太郎監督がいたり、ガイナックスと共同で作品を制作していたりするのでやや事情は異なりますが、今ではほとんどイコールのようになっています。
ab:逆に言えば2010年代以降はほぼ新房監督中心の制作体制になりますね。
あにもに:ある時期から新房レジームが出来上がるわけです。もちろん、その下にはシリーズディレクターや副監督などがいて、現場の指揮を取っているポジションの役割の方もいます。そして、ここ最近はまた内情が変わってきており、佐伯昭志監督の『アサルトリリィ BOUQUET』(2020年)などはシャフトにとって新しいムーブメントでありながら、ある種の回帰的側面を持っていると言うことができるかと思います。
北出:なるほどです。『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年)は、新房監督が「監督」としてクレジットされた最後の作品という認識で合っていますか?
ab:監督としてクレジットされたのは『続・終物語』(2018年)が一応最後にはなりますね。基本的には総監督が多いです。
北出:完全オリジナルの作品といった意味では『まどか』が最後になるといった感じでしょうか。
あにもに:そうなりますね。
ab:新房監督はシャフトの他作品と比べても『まどか』の画作りに深く関わっていました。絵コンテのチェック時に入れる修正などを見ても、『まどか』はかなり多かった印象がありますね。新房監督のフィルムと言っても良いと思います。
北出:ちなみに『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』(2013年)でもクレジットは監督ですか?
ab:こちらは総監督で、監督は宮本幸裕になっています。宮本監督はもともとテレビ版ではシリーズディレクターを務めていました。
北出:宮本監督は『マギレコ』でもディレクターや監督などを担当されていて、統括に近いポジションですよね。
あにもに:劇団イヌカレーの泥犬総監督がいわゆるテレビアニメの専門家ではないので、宮本監督が共同でサポートをしているといった制作体制かと思います。新房監督はアニメーションスーパーバイザーという謎のクレジットになりました。アニメーションスーパーバイザーが何であるかは知りません!
北出:僕は基本的に物語的な水準でシリーズを追っているので、お二人にお聞きしたいんですが、新房監督の画作りが反映されているテレビ版と『叛逆』には、アニメーションの表現的な水準において差異があるのでしょうか?
ab:これはなかなかの難問が来ましたね(笑)。
あにもに:ひとつ事実として言えると思うのは、『叛逆』の画作りには劇団イヌカレー的な想像力が全面に押し出されていることです。先ほど『まどか』は新房監督のフィルムであると言いましたが、それに倣うならば『叛逆』は劇団イヌカレーのフィルムと形容しても間違いではないと思います。そういう意味では、『マギレコ』と表現論的な水準の上で接続可能なのは『まどか』ではなく、むしろ『叛逆』の方が強いと言えます。
北出:なるほど。僕はテレビ版は正直あまり響かなくて、それは物語的な部分に起因するものなのかなとも思っていたのですが、おそらく表現論的にも深層意識ではそうだったんじゃないかなと、今の話を聞いて思いました。というのも、『叛逆』の方はテレビ版とフォーカスしている部分が違う気がしているんです。
あにもに:フォーカスしている部分、ですか?
北出:これは印象論ですが、図と地(キャラクターと背景)といったものがあった際に、それぞれを別のレイヤーとして描いていないというか。『叛逆』は舞台そのものが「暁美ほむらの作り出した虚構世界の中」ということもあり、より劇団イヌカレー的なコラージュの側面が強くなっていると感じます。画的にも図と地がそれぞれ、どちらが図でどちらが地か分からない感じになっていたりしていて。
あにもに:劇団イヌカレーの役職としては、テレビ版では魔女空間の異空間設計がメインだったのに対して、『叛逆』では「コンセプチュアル・アートデザイン」というクレジットが追加されています。これだけだといまいち仕事の内容がイメージしづらいかもしれませんが、出来上がったシナリオをベースに様々なイメージボードを描き起こしていたりして、それを元にヴィジュアルを組み立てています。かつ『叛逆』はほぼ全編にわたって異空間が展開されていると言っても良いので、どこのシーンを切り取ってみても劇団イヌカレーの作家性が感じ取れるようになっているかと思います。
北出:新房監督の作風というのは自分にはちょっと分からないのですが、テレビ版に独特なあの少し突き放したクールな感じは、新房監督のキャラクターに対する距離感が如実に表れているんじゃないでしょうか。ストーリーとしてのハードさから、虚淵玄の作家性としてまとめられがちですが。
ab:アニメーションの表現の部分ではないのですが、『叛逆』の後半の展開やヴィジュアル的な部分は、同じく新房監督のオリジナルアニメである『コゼットの肖像』(2004年)を彷彿とさせる部分がかなり多かった印象でした。そこにピントを合わせれば『叛逆』における新房監督の作風が浮き彫りになるではないかと思います。
あにもに:ゲームの企画がどう始まったのかは詳しく知りませんが、そういう意味では『マギレコ』で新房監督が一線を引いたのは分かりやすい変化と言えます。
ab:個人的には『マギレコ』のゲームはアニメの新作が出来るまでの繋ぎという意味合いも強かったと思います。
あにもに:新作の企画が動き出してから『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』のタイトル発表まで大分時間がかかっていますからね。ただ、そういったある種の時間稼ぎ的な側面もあった『マギレコ』がここまで豊かな広がりを持つ作品になるとは正直思わなかったです。
北出:ゲームのリリース時を振り返ってみると、みかづき荘の面々といったオリジナルキャラクターたちもいましたが、どちらかというと『魔法少女おりこ☆マギカ』(2011年)や『魔法少女かずみ☆マギカ~The innocent malice~』(2011年)といった外伝作品のキャラクターが登場することを売りにしていたような気がします。『まんがタイムきらら☆マギカ』で連載していた作品のキャラクターたちが、見滝原組やみかづき荘の面々とアベンジャーズ的にクロスオーバーしていくような。なので、自分もここまで『マギレコ』独自の世界観が広がることになるとは思わなかったです。
【ノベルゲームの構造】
あにもに:ちなみに自分はゲーム版をリリース時からプレイしているのですが、北出さんは最初からプレイされていた感じですか?
北出:僕はリリースされた当時、スマホが対応機種ではなくてインストールできなかったんです。そこで一度挫折してしまって……。
あにもに:なるほど。とはいえ、最初から関心はあった感じなんですね。
北出:僕はテレビ版のロジックで固められたクールな視線を持った作風よりも、『叛逆』のテレビ版の世界観を二次創作的に組み立て直す感じがすごく好きだったので、『マギレコ』はそれと同じものが期待できると思って最初から興味は持っていました。実際に触れたのは、フルボイス化された際にプレイ動画が上がっているのを見つけた時です(今では大部分が権利関係で削除されてしまいましたが……)。そこでメインストーリーのシナリオそのものにハマっていきました。
あにもに:メインストーリーがフルボイス化されたタイミングということは、リリースされてからは結構時間が経ってからですかね。
北出:2019年とかですね。アニメの制作が発表されて、その予習としてちょうど良いと思って触れ始めました。少々込み入った話になってしまいますが、僕はもともとノベルゲームのアニメ化が好きで。
あにもに:ノベルゲームが好きということに留まらず、そのアニメ化されたものも好きというのは結構珍しい気がします。どこに魅力を感じるんですか?
北出:僕がノベルゲームのアニメ化で好きなのは、本来であれば分岐することで別々の世界線になるようなストーリーが、アニメではひとつの一本道に束ねられるようにシナリオが組み替えられていく点です。脚本家や監督が元のシナリオの良さを生かしつつ、本筋にうまく組み込む翻訳を行う手付きに面白味を感じています。
あにもに:『マギレコ』も同じようにノベルゲーム的な文脈を踏まえた作品ですね。
北出:原作にあたる『まどか』に関してもそういったことが一部では言われていましたが、言ってしまえばそれは虚淵玄がニトロプラスに所属しているというバイアス込みのものだったと思います。『マギレコ』は、僕がもともと好きだった「ノベルゲームのアニメ化」的なアダプテーションを本来の意味でやってくれるのではないか、といったぼんやりとした期待があったんです。
あにもに:ひとつ質問しても良いでしょうか。『マギレコ』のゲームは一部のイベントストーリー系を除くと、メインストーリーではほとんど分岐要素はなくて、あったとしても物語に影響しないようなものが大半だったと思うのですが、ノベルゲーム的な世界線の構造を考えた際にそこは問題にはならないんですか?
北出:世界線という言い方をしてしまったのが良くなかったかもしれません。いわゆるノベルゲームの個別ルートにおいて、各キャラクターにフォーカスが当たるような物語形式がありますよね。
あにもに:ジャンルにもよりますが、例えばキャラクターの攻略ルートやトゥルーエンドといった言い方をするものですね。
北出:恋愛アドベンチャーであれば「ヒロインを攻略する」といった言い方になると思うのですが、やっていることとしては、プレイヤーにキャラクターを好きになってもらうために、そのキャラクターの人生を掘り下げるということだと思います。Key作品に代表される「泣きゲー」といったシナリオ重視のスタイルが定着してからは特にそうですね。ただ、それは普通にアニメ化していたら全部は描き切れません。
あにもに:ノベルゲームのアニメ化はその取捨選択が非常に難しい印象があります。特に1クールの作品だと、ほとんど扱えないケースが多そうです。
北出:なので表情づけや断片的な台詞などでキャラクターの陰りを見せたり、何かトラウマがあるようにほのめかす。ただ、その理由はアニメでは描かれない。それが制作者だけの秘密になっているのではなく、視聴者は知ろうと思えばゲームをプレイして知ることができるという、この相互補完の関係が好きなんです。その意味で、『マギレコ』において同様の役割を果たしているのは「魔法少女ストーリー」です。
あにもに:なるほど、たしかに魔法少女のバックストーリーを一人称視点で綴ることの多い「魔法少女ストーリー」のシステムはユニークです。『魔法少女まどか☆マギカ ポータブル』(2012年)など今まで作られたゲームには無かった新要素といえます。そう考えると特別メインストーリーの分岐のみにこだわる必要はないと。
北出:ええ。「魔法少女ストーリー」では、一人ひとりのキャラクターが契約を交わすに足る理由が描かれていて、本当に素晴らしいと思います。もちろんちっぽけな願いであったり、止むに止まれず契約してしまったキャラクターもいますが、きちんと自分の人生において譲れないものは何かを考え抜いた上で契約を交わしているキャラクターも多く、その姿は人間として尊敬に値します。読んでいると、自分自身の人生を問われているような気持ちにもなる。この構造自体は原作の『まどか』からあったはずなのですが、ほむら‐まどかを軸にした本筋の物語に覆い隠されてしまっていた。『マギレコ』では「魔法少女ストーリー」という形式を手に入れたことによって、『まどか』が本来持っていたそのポテンシャルが全面的に開放されたと言って良いと思います。
ab:なるほど。ノベルゲームにおけるストーリーの多面性ではなく、キャラクターの一人ひとりにスポットライトを当てて掘り下げていく部分を重視しているということですね。
あにもに:これは余談になりますが、『マギレコ』のゲームがリリースされた際に、さまざまな新しい魔法少女が出てくる上で、みんながみんな重い過去や悲惨な人生を送っていたら嫌だなと思っていました。もちろん『まどか』シリーズのファンは、そういった側面を期待していた人も多かったとは思うのですが、それは結局突き詰めると悪趣味にしかならないので、あまりその辺を過剰にフィーチャーしてしまうと危険だなと思って。しかしながら実際にゲームがリリースされて、それがまったくの杞憂であったことを秋野かえでの「魔法少女ストーリー」を読んで思い知らされました。これは1st SEASONでレナも言っていましたが、かえでの願いは間違いなく他と比べてしょぼいんですよ。
ab:建設中のマンションを無かったことにしたり……。
北出:日照権的な問題で、自分の家の家庭菜園が続けられなくなってしまうからという理由で。
あにもに:そうです。あれを読んで、やはりこういう女の子がいても全然良いよな、と強く思って(笑)。もちろん中には凄惨な人生を送っている少女もいるとは思うのですが、みんながみんな同じような境遇なわけないし、ある種の日常の延長の願い事で契約する少女がいることに、かえってリアリティを感じました。願いであることには変わらないし、そもそも他と比べるものでもない。この調子であれば、この先どんどん魔法少女を増やし行ってもバランスが保つことができるな、とゲーム制作者に対する謎の信頼感が芽生えました。実際、魔法少女の願い事に関しては落差がとんでもないですよね。文字通り絶望的な人生を送っているキャラもいる中で……。
北出:「限定スイーツが食べたい」という願いで契約した某魔法少女もいますからね。
あにもに:まさにそうで、その振れ幅が非常に面白いポイントでもあると思います。
北出:振れ幅といえば、一番ぶっちぎりでヤバいと思うのは佐和月出里の魔法少女ストーリーです。
あにもに:佐和月出里の話は言及するのも躊躇われる……。
北出:あれは本当に恐ろしい話で、「青年誌で連載している漫画にありそうだな……」と思いました。ただ、全体として悪趣味になっていないというのはその通りで。魔法少女であるという一点において、どんな過去を持っていようが、どんな願いで魔法少女になっていようが、ある種みんな対等というか。その先で手を取り合ったり、反目しあったりするところに比重が置かれているのが良いと思うんです。基本的にメインストーリーでは過去のトラウマに起因するトラブルみたいなものはあまり描かれず、魔法少女にすでになってしまった人たちが、いかにして手を携えることができるか、という話になっている。これはまさに我々の現実の生き方そのものですよね。今こうしてZoomで話している我々も、お互いをまったく知らないわけじゃないですか(笑)。家族構成や素性なんて詳しく知らなくても、こうやってひとつの場に集まって、探り探り共通点を探しながらコミュニケーションを取っている。仕事だったら、その先に何かひとつの目標に向かっていく、ということになるでしょうし。
あにもに:今の状況そのものであるというのは面白い指摘です。たしかに我々はお互いのことを詳しく知らないのに、奇跡的なめぐり合いで今こうして同じ場に居合わせて好きなものについて話している。『マギレコ』はそういった人間模様の多様性が丁寧に描かれていると思います。
北出:人間模様が描かれているということは、つまりキャラクターが記号的ではないということです。あにもにさんが例に挙げた秋野かえでがまさにそうですが、先ほど言ったような願いで魔法少女になってしまったという事実がある一方で、親友の水波レナに対する当たりが強かったりしますよね。
あにもに:本編でもかえでのレナいじりは結構多いですね。
北出:「日照権の話で魔法少女になってしまった」と言うと、ドジっ子属性のようにも思うし、実際にそういった側面も強いのですが、意外と物事を俯瞰して見ている部分もあったりして。先ほど魔法少女全体の多様性といった話が出ましたが、一人のキャラクターの持つ多面性も良く描かれていると思います。
あにもに:たしかにそうしたキャラクターの多面性というのは特に「魔法少女ストーリー」やイベント系のストーリーを読んでいて感じます。掘り下げがいまいちなキャラクターもいないわけではないですが、膨大な数のキャラクターの多面性、あるいはキャラクター同士の関係性を描こうとしていることは間違いないと思います。実際、メインストーリーよりも面白いと言っても良いかもしれません。
北出:これは『まどか』の放送当時から言われていたことでもありますが、蒼樹うめによる可愛らしいキャラクターデザインでありながら、すごく人間臭くてドロドロしたものを抱えている。そういう意味でやはり連続性があるというか、『まどか』のそうした部分を拾ってきて『マギレコ』はさらに展開している。アニメ版においてもそういったところの表現や解像度が高く、フィルムにも上手く落とし込まれています。
あにもに:アニメの総監督として、ゲームのヘビーユーザーでもあり、イベントストーリーのシナリオやドッペルの解説文なども執筆している劇団イヌカレーを抜擢したのはきわめて妥当だったと思います。原作の細部を良く読み込んでいて、キャラクターと世界観を設定レベルで上手く組み合わせている。
ab:個人的な印象ですが、テレビ版はストーリーと設定が必ずしも一致していないというか、一体化されてない感触があります。逆に『叛逆』や『マギレコ』では、ストーリーと設定が一体化されて描かれるようになっています。ひとつ例を挙げるとするならば、『叛逆』における「偽物街」や「偽街の子供たち」をめぐる設定などは、テレビ版の『ファウスト』の引用に比べてストーリーへの関わり具合がより深くなったと思います。
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』
あにもに:テレビ版は探り探りでやっていて、まだ先が見えない中で作っている側面が強いと思うので、劇場版の方が設定周りは緻密になっていますね。テレビ版では1話に登場するまどかのリボンが、物語終盤でキーアイテムになると想定していなかったらしいですし。
北出:世間では『マギレコ』には全然関心がなくて、『叛逆』の続編を早くやってくれよ、と言う人も多い印象があるわけですが、いやいや違うんだよ、と。劇団イヌカレーの関与度合いという意味でも、明らかに連続性があるのは『叛逆』と『マギレコ』なのであって、切断線はむしろテレビ版と『叛逆』の間にあるんだよ、ということを言いたいですね。
あにもに:これは『まどか』に10年前ハマっていたファンが『マギレコ』をスルーしている問題にもおそらく繋がってくる話だと思いますが、『マギレコ』のゲームに触れていない人から見たアニメはどういう風に見えているのか気になっています。
ab:海外のファンの話になりますが、当然ゲームをやっていない人の方が多いわけです。『まどか』の外伝という触れ込みもあり、アニメの『マギレコ』の評判はあまり良くなく、期待外れだったという感想が多かったです。ただ、逆に『まどか』を知らなく『マギレコ』のアニメから入った人には結構評判が良くて。
北出:それはおそらく日本の多くの人にも共通しているでしょうね。網羅的に感想を把握しているわけではありませんが、アニメだけを観て、ストーリーがよく分からないと言っている人は1st SEASONの放送時から少なからずいた印象があります。
ab:あと単純にキャラクターが多すぎるといった問題もありますね。
北出:やはりフォーカスしているポイントが違うということなんですよね。原作がソーシャルゲームなので、ファン向けにその要素を拾って来る必要があるということもありますが、それ以上にストーリー上、テーマ上大事にしているポイントが全然違う。
あにもに:『まどか』と『マギレコ』では描こうとしている主題がまったく異なるのはその通りだと思います。そこに気が付くことができるかどうかで大きく見方が変わる。
北出:『まどか』は、全12話の中でいかに衝撃的な真実が明かされて、それがどのように解決されるのかというクリフハンガー的な仕掛けで魅せていったシリーズだったと思います。これはこの前のAniplex Online Fest 2021で評論家の藤津亮太が指摘していたことですが、『まどか』→『叛逆』→『廻天』と続いていく本筋が、テレビ版が作り出した世界観を「深める」方法論を取っているものだとしたら、『マギレコ』は『まどか』の世界観を横に「広げる」コンテンツなんだと。
あにもに:ソーシャルゲームという媒体を考慮しても、その整理の仕方は妥当ですね。もちろん、方法論的に各作品が取っているアプローチが異なるといったことは言えると思うのですが。
北出:『マギレコ』は単にキャラクターが増えているということもそうだし、見滝原の外側にも普通に世界が広がっていて、そしてその世界に生きている魔法少女も当然いるよね、というリアリティに基づいて物語が構築されているんです。こうやって僕たちが暮らしているこの現実の世界にも、どこかに魔法少女がいて日々魔女を狩っているかもしれない、そういう想像力を喚起させてくれるような作りになっている。そこを面白いと思えるかどうかで評価が大きく変わってくると思います。
あにもに:そもそものコンセプトからして違うというのは仰る通りです。『まどか』ではまどかが魔法少女になるまでの決断の過程をずっと描いていて、これが全編を貫くテーマになっていると言っても良いと思います。つまり「魔法少女とは何であるか」あるいは「何を願って契約を結ぶか」といった点に重点が置かれているわけです。そういう意味で『マギレコ』は毛色が全然違っていて、魔法少女になるかならないかではなく、「魔法少女たちは、どう生きるのか」が共通のテーマになっていると言えます。すでに魔法少女になった後の少女たちがを描いている作品というか、本当の意味で「魔法少女の生き様」を描いているのはむしろ『マギレコ』の方です。
北出:そう、生き様なんですよ! 僕の思う『マギレコ』のポイントはまさにそこです。もう言ってしまいますが、『マギレコ』はこの2021年現在、アニメや実写作品などすべて含めて、僕がキャッチアップしている範囲では一番良く「人間」が描けている作品だと思っています。この前、あにもにさんが反応してくださったのですが、僕は『マギレコ』は「この世界・外伝」だと思っています。
あにもに:『まどか』の10周年記念イベントの直後にやっていたツイキャス配信でも仰っていましたね。
北出:物語としての『まどか』は、あにもにさんが仰った通り、その中でまどかがいかに魔法少女……というか女神様になる決断をするか、といった話でした。しかしあの作品において「希望と絶望の相転移」や魔女や魔法少女といったメタファーで描かれていたものは、「この世界」に依然として存在する。その中でどうやって生きていくのか、という話を『マギレコ』は丹念にやってみせていて、だから『マギレコ』は「この世界・外伝」なんです。
あにもに:そうした構造とソーシャルゲームというメディアの相性がきわめて良かったのが、『マギレコ』の一番の特徴だと思います。すみません、ゲームの話だけですでに2時間近く話してしまっていまして、そろそろ本題であるアニメ2nd SEASONの話をしますか(笑)。
北出:あ、まだしていませんでした! 一応触れ込みとしては2nd SEASON 1話の感想会だったのに(笑)。
あにもに:アニメ前夜として今までの話を踏まえた上で、これからのアニメをみんな観て欲しいですね。
【覚醒前夜の仕掛け】
あにもに:まずは2nd SEASON 1話の仕掛けについて話しましょう。放送直前特番でアニプレックスの石川達也プロデューサーが1話では「大きな仕掛け」があると言っていましたが、この仕掛けというのは「初回で丸々見滝原組の物語をやってしまう」といったものでした。放送直前PVで使用していた絵を1カットも使わずに、です。
北出:そういう意味では久々に『まどか』っぽい要素が来ましたね。
ab:アニメの序盤に何かしらの仕掛けを施してくるアニメは『まどか』以降多くなった気がしますが、2010年代後半は逆に少なくなった印象でした。『まどか』シリーズの外伝である『マギレコ』でこういった仕掛けをやってくるのは、かなり感慨深かったです。
あにもに:前の話の続きをやるのかと思いきや、丸々1話を使って別の時間軸、別の視点の物語をやるといった意味では実に『まどか』10話らしい仕掛けでした。また、本来オープニングに位置付けられるClariSの楽曲をエンディングで流す構成も、10話の構成をなぞっています。ただ、ツイッターで感想を検索したところ「いやこれを1st SEASON 1話でやっておけよ」といった感想が書かれていて驚きました。たしかに今回の話は原作のプロローグにあたる部分なので、一見理解できそうな主張ではあるのですが、マミさんの不在と見滝原組の結束を描いた今回の物語は、むしろ2nd SEASON 1話でしかできなかった話だったと思います。
北出:「1st SEASONからやっておけ」と言っている人たちは、単純に『まどか』の続編を期待しているような人じゃないですか? 『マギレコ』のアニメにゲームという原作があることを踏まえず、「『まどか』シリーズの新しいアニメ」として観ている人からすれば、まあそういうこともあるかなと。ただ、そもそもゲームにおいて見滝原組を使ってチュートリアルを行うのが妥当だったかといえば、正直浮いているなと感じた記憶があります。
あにもに:それは僕も感じますね。あのチュートリアルが『マギレコ』という物語のプロローグとして機能しているかといえばきわめて微妙なところです。
北出:それこそ『まどか』が好きな人をゲームに誘導するために、とりあえず見滝原組でチュートリアルをやる、といった感じだったと思います。彼女たちを『マギレコ』のメインストーリーに組み込むやり方としては、今回の2nd SEASONのほうがずっとスマートでしたね。
ab:それを委員長の魔女パトリシア戦でマミさんがいない状態でやったのが構成的に上手かったです。
あにもに:僕も今回の話を観てパトリシアの強さを再認識しました。
ab:『まどか』では、パトリシアはマミさんがいたからこそ瞬殺できた魔女だったのですが、今回マミさんがいないことでここまで苦戦してしまっています。それと対比してマミさんに頼らない形で戦わなければならなくなったのは非常に面白かったです。
北出:でも、マミさんは「いる」んですよ! みんなマミさんのリボンを持っていますし、これはベタかとも思いましたが、マミさんのテーマが音楽として流れるわけです。
ab:いないけれど、いる……。
あにもに:まどかたちはみんなマミさんの弟子で、今回の話は半人前の魔法少女たちが師匠を失ってどう立ち向かっていくか、といった話でもあるわけですよね。この物語を描く上でリボンの扱い方は本当に上手いと思いました。
北出:そもそもリボンは『まどか』において重要なアイテムです。一番に思い出されるのは、テレビ版最終話のほむらがアルティメットまどかから託されたものとして身に着けている赤いリボンです。それはある意味で『叛逆』の展開に繋がっていってしまう呪いのようなもの……悪魔化を引き起こすきっかけにもなる、愛と呪いの表裏一体の象徴でした。一方、今回はマミさんの黄色いリボンを通して、リボン本来の用途に基づいて絆を「結び直す」ような、そういうものとして語り直されている。
あにもに:今回リボンの描写で周到だと思ったのは、リボンが結び付きの象徴であると同時に、束縛といった両義性もきちんと描いていた点です。まどかは変身シーンでリボンを使い、さやかはリボンを握りしめて自室に引きこもり、ほむらは慣れない銃をリボンで固定するために使う。そして各々がリボンを使って戦ったり、時に手放したり、アイディアが実に多種多様で豊富でした。
北出:それでいて、今回の話は「力を合わせれば勝てる」という単純な話でもなくて。個々の魔法少女の能力には得意不得意があって、それを工夫して連携することによって強敵にも勝つことができる、ということをアクションシーンを通じて説得的に見せていた。だからこそまどかの「みんなでなら魔法少女になれる気がしたの」というセリフも上滑りしていない。
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-』
1話「みんなでなら魔法少女になれる気がしたの」
あにもに:『まどか』10話で同じ駅のホームのシーンで、マミさんが魔法少女の真実を知り絶望する際に放つ「みんな死ぬしかないじゃない」というセリフがありますが、その対比で考えると「みんなでなら魔法少女になれる気がしたの」はなかなか訴えかけてくるものがありますね。
北出:先ほど『マギレコ』はすでに魔法少女になってしまった少女たちのドラマであるといった話をしましたが、今回の話はすでに魔法少女に「なってしまった」少女が、あらためて魔法少女に「なり直す」物語としてあるわけです。テレビ版はまどかが女神様になるまでの話でしたが、今回はみんなで魔法少女になる。「魔法少女になる」とはどういうことなのかを再定義している。
あにもに:なるほど、魔法少女の再定義ですか。それをまどかがやってみせてくれるわけですか。魔法少女に「なり直す」物語というのは、『マギレコ』らしいテーマでもあります。実際、一度挫折を経験している魔法少女が作中では多数存在しています。
北出:すべての真実を受け入れた上で、自分の意思で魔法少女になるという選択を、主人公のまどかが明言してくれた。また、もうひとつ「魔法少女になんかなっちゃったけど」という良いセリフもありました。なっちゃったけど、なれるんです。肉体として「なる」ことと、魔法少女という存在に「なる」ことはやはり位相が違う。これは僕の考えですが、人生で自分が何かを「選ばされてしまった」と考えている内は、その人は自分の人生を生きていないんですよ。自分がこれになるんだ、と思えた瞬間にその人の人生が始まるというか。
あにもに:自らの意思で人生を選び取るということですね。分かるような気がします。
北出:まどかが主人公らしいことを言ったことが心の底から嬉しかったです。
あにもに:主人公性といえば、自称シャフトオタクとしてこれは言及しておきたいのですが、今回はいわゆるキャラクターのシャフ度が連発されます。僕は今回のシャフ度からキャラクターのある種の特権性を読み解くことが出来ると思っていて、これはツイッターにも書きましたが、『マギレコ』においては原則シャフ度の演出は禁じ手にしていました。
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON』の1話でひたすらシャフ度を連発しまくっているのは要するにこれが見滝原の物語だからで、1期を見る限り『マギレコ』キャラでは原則シャフ度を縛っていた感じだったので、首の角度で世界観を差異化する世にも珍しいシャフト演出なのである。
— あにもに (@animmony) 2021年7月31日
北出:1st SEASON 3話でマミさんが登場した際にやったくらいですか。
あにもに:それとアリナ・グレイが変な角度を付けていましたが、彼女はすべてがぶっ飛んでいる規格外の存在なので例外として……。まさに1st SEASON 3話でマミさんがシャフ度っぽい所作を披露したことが象徴的ですが、見滝原組と神浜組で明確にシャフ度をするキャラとしないキャラを使い分けているんです。そして個人的に最も関心があるのが、今回まどかがシャフ度で振り返った点です。実は主人公のまどかがシャフ度を披露することはテレビ版でも『叛逆』でもなくて、基本的にまどかはずっと相手にシャフ度で振り返られる側でした。そういう意味ではまどかのシャフ度は非常に重要で、つまり今回の話は主人公という特権的な存在がいない物語として見做すことができるのではないかと思うんです。実際、今回のエピソードはまどかが主人公のようにも見えるし、見方によってはさやかが主役にも見えるし、最後のカットではやはりほむらが主人公っぽく見える。ある意味で全員が主人公然としていると言えると思います。これがまさに『マギレコ』的なテーマとも結び付いていて、こういう風にシャフ度を使うことが出来るのかと感心していました。
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-』
1話「みんなでなら魔法少女になれる気がしたの」
北出:それでいえば僕が先ほど「まどかが主人公らしいことを言った」と言ったのは、あくまでも「主人公キャラ」として、ということです。さやかの「まどかってさ、結構ずるいとこあるよね」というセリフもありましたが、まどかに限らず、主人公というのは物語上特別な立ち位置を与えられているという意味で、基本的に「ずるい」ポジションですよね。あにもにさんが仰ったように、実質的な主人公はいない構造を示しつつ、「主人公キャラ」としてのまどかをあのさやかのセリフによって補強する形になっている。
あにもに:とにかくシナリオとセリフの書き方が上手いですよね。それにしても『まどか』10話で「私この子とチーム組むの反対だわ」と言っていたさやかが、こんな姿を見せてくれるとは……。こういうルートもちゃんと存在したんだ、と感慨深くもあります。
ab:今回の話はちょっとしたきっかけ、ほんの些細な動機でさやかの心境が変わっていますね。
北出:さやかは本編ではああいった顛末を迎えましたが、彼女は基本的に「自分は/魔法少女はこうあるべき」といった理念に対してストイック過ぎるからこそ、破滅していったキャラクターだったと思うんですね。なので逆に言うと「こうあるべき」というものが整合的に組み立て直されれば、むしろ一番強くなる。
あにもに:たしかに、さやかは誰よりも正義感が強いキャラクターとして描かれていました。だからこそ不条理な世界の現実主義者である杏子と対立してしまうわけです。
北出:ネットでさやかのキャラがブレていると指摘する感想も見かけたんですが、「あなたは美樹さやかの何を見ていたんだ!」と言いたい(笑)。abさんも仰ったように、今回の出来事は些細な掛け違いによって起きていて。今回さやかが魔女化しなかったポイントは「魔法少女の本体はソウルジェムである」ことを初めに知らされなかったことにあるのではないかと思うんです。さやかは「ゾンビ」という言い方をするじゃないですか。
あにもに:魔法少女としての自分を「すでに死んでいる」と言うんですよね。あれは結構独特な表現の仕方です。
北出:あの真実を聞かされて、「ゾンビ」という形容詞が即座に出てくる想像力はちょっと普通じゃないなと、当時から少なくない視聴者が指摘していた記憶があって。恋愛がらみで願いを叶えたということを考慮に入れたとしても、さやかは「身体と魂が一致している」ことに対して人一倍強いこだわりがある人のように描かれているんですよね。ただ、今回はその過程をすっ飛ばしてホーリーマミに出会い、魔女化の真実を知ったせいで、その問題はある意味スルーされることになった。「身体と魂の一致」よりもさらに大きい問題としての魔女化という真実をぶつけられたからこそ、魔法少女としてどう生きていくか、といった話を強制的に考えざるを得なくなった。
あにもに:心身問題よりも、さらにもう一段階高次元の問題に直面してしまったが故にですね。
北出:今回の「魔法少女になった以上、腐ってても始まんないわ」というセリフは、「ゾンビ」発言を汲んだ上での非常に秀逸なセリフ回しと言えますね。さやかはヒーローとして自分の身を犠牲にして戦う「魔法少女憧れ」がすごくある人で。だからみんなで協力して戦えば良いんだ、という発想にさえなれば、あとはもう「私の信じる魔法少女道を行くだけだ」のようになれる。なのであの戦闘力に関しても納得だし、さやかのキャラはまったくブレていません!
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-』
1話「みんなでなら魔法少女になれる気がしたの」
あにもに:さやかの心情の変化をきわめて論理的な順序立てで描写していますよね。僕もさやかのキャラはブレているとは思わないです。ちなみにですが、マミさんのケースはどうでしょうか? 『マギレコ』におけるマミさんの描写は原作からずっと批判的な声があって、それこそキャラが崩壊しているのではないか、といった意見が結構ありました。おそらく泥犬総監督も相当そこを気に掛けている様子で、アニメ化する上で細心の注意を払っていると思われます。もちろんそれはホーリーマミの設定レベルの問題かとも思うのですが、根本的にマミさんがマギウスの翼側に与する理由付けは十分になされていると思いますか?
北出:テレビ版のときから、マミさんは自分が救済されたいわけではなかったと思います。マミさんはまどかやさやかたちを巻き込んでしまって、彼女たちを魔法少女にしてしまったことに対して負い目を感じていて、そこに関しては一貫している。
あにもに:見滝原組はみんな基本的にマミさんに憧れて魔法少女になっているわけですからね。それとテレビ版では描かれませんでしたが、杏子にしてももともとマミさんの弟子ですよね。彼女が魔法少女のロールモデルになっているわけです。
北出:「私が魔法少女として頑張っている姿を見せてしまった」こと自体が、罪だと認識してしまうような人なんですよね。それぞれが契約して魔法少女になった責任は、マミさんにはまったくないわけですが、彼女は自分に責があると考えてしまう。そう考えると、一気に「魔法少女」という存在全体を救済しようとするシステムにすがるのは、それほど矛盾はないかなと思います。
【引用とコラージュ】
あにもに:2nd SEASON 1話は全体として『まどか』10話との対比になっていましたが、今回のエピソードはシナリオのみならず、画的にも音楽的にも様々な対比表現が随所に散りばめられていましたね。
北出:音楽といえば、まどかがさやかにテレパシーで会話を始めるところがありますよね。あそこでロック調のBGMが流れますが、あれは『まどか』10話でほむらが「もう誰にも頼らない」と言って、一人でループし続ける覚悟を決めるときにかかる音楽なんです。それを『マギレコ』では、まどかが決意を固めて「みんなでなら魔法少女になれる気がしたの」と言って、さやかに発破をかけるシーンで使っている。
あにもに:10話の飛び抜けて上手い引用のひとつですね。音楽の使い方といえば、冒頭でういが「神浜市に来て、この街で魔法少女は救われるから」と言うシーンの音の使い方には震えました。
北出:音楽的な観点からも天才的だと思いました。DJ的・リミックス的な発想で、同じBGMをループさせつつもビートを強調し、上物にエフェクトをかけることによって異質さを表現している。そしてういが無限に出てくる(笑)。
あにもに:ほむらの時間操作魔法を超越するういの不気味さを表現する尾澤拓実の音楽センスは素晴らしかったです。また、このういが出てくるシーンが特に象徴的でしたが、2nd SEASON 1話は特に引用とコラージュで出来ていました。映像面でも画面のアスペクト比を変えながら、原作と1st SEASONをコラージュしていく手付きで構成・引用しつつ、意味を少しずつズラすことをやっていて、非常に批評的でした。
北出:パトリシア戦でまどかが弓を引くカットの構図とか。
『魔法少女まどか☆マギカ』10話「もう誰にも頼らない」
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-』
1話「みんなでなら魔法少女になれる気がしたの」
あにもに:同ポのカットで完全に一致していましたね。背景や撮影はやり直しているように見えましたが、一見すると再放送かと見間違えるくらいに既視感がある(笑)。
ab:2nd SEASONの引用は、ほむらのループの中で少しずつ差異を加えていく構成が上手かったです。全部を描き直すのではなく、あくまでも一部を変えていく。『まどか』10話からの引用がより深くその印象を与えます。
北出:魔女空間から脱出した後のへたりこんでいるまどかとほむらの横で、『まどか』10話ではマミさんのいた位置にさやかが立っているカットとか。
あにもに:レイアウトを反転させたり、一部構図を変えてみせたり、そういった差異を通して『マギレコ』のテーマを表現していくきわめて巧みな演出です。今回の絵コンテはまさにかつて10話の演出を担当した八瀬祐樹でした。これまでの『まどか』シリーズを意識的に踏まえつつ、解体と再構築をやってみせていて、単純に見滝原組を出すといったファンサービスに留まっておらず実に圧巻でした。
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON』1話の絵コンテを担当した八瀬祐樹は、言うまでもなく『魔法少女まどか☆マギカ』3話と10話で演出を担当した演出家であり、原作第1部のプロローグにあたる『マギレコ』2期1話で演出を担当することは、論理的な必然性を伴っているのである。
— あにもに (@animmony) 2021年7月31日
北出:自分が特にグッときたのは、さやかの心情表現です。水底に落ちていくソウルジェムと、気づきを得てそこから浮かび上がってくる表現。もちろん長田寛人のアクション作画もですが、スタッフ陣はどれだけさやかに対して全力投球なんだよ! と。
Hiroto Nagata 長田 寛人 did another STELLAR sequence in today first episode of Magia record s2.
— Iluvatar (@IIuvatar_) 2021年7月31日
I have no words, it's just pure art. pic.twitter.com/D7x9azAoYt
あにもに:今回はさやかの救済的な側面も強いかと思います。さやか好きが絶対に制作内にいるだろうみたいな。
ab:『まどか』テレビ版放送終了後のインタビューや、最近のさやかの挿絵の気合いの入れ方をみると、制作陣にはさやか好きな人が多い印象ですね。
あにもに:それでいてさやかだけではなく、まどかやほむらにもしっかりと焦点が当たっていて、きちんとみんな主人公っぽく描けていて素晴らしい。
北出:ループキャラという特性上、必然的にメタ的な特権性を持った存在にならざるを得ないほむらが、今回は良い意味で1人のキャラクターでしかなかったのも良かったです。
ab:ループがまだ浅いので、ほむらにとってまどかがそれほど特別な存在にはなっていないという理由はあるかもしれませんね。
北出:たしかに今の時点ではテレビ版ほど拗らせてはないですね。
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-』
1話「みんなでなら魔法少女になれる気がしたの」
あにもに:引用といえば『劇場版 魔法少女まどか マギカ [後編] 永遠の物語』(2012年)からの引用もあって、映画で新規に追加されたシーンが引用されていましたね。あれも一見すると同じに見えますが、映画版ではクーほむだったのが、今回はメガほむに変更されている。こうした微妙な差異を作り出していていることを考えると、この引用が成立するのは2nd SEASON 1話だからこそだなと。最初にこれを見せられてもその意義が分からないままだったことを考えると、今回のエピソードは2nd SEASONの導入として強力に機能していると思います。
【黒羽根/神浜東西問題】
あにもに:今後の展開がどうなるか正直まったく予測できませんね。特にCパートの柊ねむの言動で完全に分からなくなりました。原作をプレイしているのにもかかわらず、混乱するばかりです。
ab:原作をやっていても先の展開がどうなるか予想が付かないのは、ストーリーの運び方が非常に上手いと言えますね。
あにもに:アニメオリジナルキャラクターである黒江の動きも分からないし、ねむの言動も分からないし、そもそもいろはの行方が分からなくなっている。ももこチームはみんなマギウスの翼に入っていて、原作と異なる展開が続いています。そう考えると見滝原組に丸々1話を割いて、尺が足りるのか心配ではあるのですが。
北出:やはり一番の特異点はねむだと思います。ねむがああいう設定になっているといよいよ分からなくなる……。それ以外は黒江がいるかいないかくらいの話で、もちろんある程度細部は変えつつも進行するんだろうなと思えるのですが、ねむに関してはマギウス=『マギレコ』世界そのものを成立させている存在なので。
あにもに:ドッペルシステムの生みの親ですからね。「魔法少女は神浜では魔女化することがない」という設定の最大の根拠となる部分です。その根幹の設定部分を変えてきそうな予感がしています。
北出:『マギレコ』に限らず物語というものの基本構造として、「障害があって、それを乗り越えて行く」というのがあるじゃないですか。ゲームにおいてマギウスはそういう意味での障害としてあって、プレイヤーはいろはたちにそれを乗り越えて欲しいと思いながら読み進めていったわけです。ただ、随時更新型のソーシャルゲームではそれこそクリフハンガー的にマギウスの真実が明かされていったわけですが、アニメ版においては、いろはたちのいないところでマギウス側の描写もなされることになる。マギウスもまた魔法少女である、群像劇を担う一角であるということを強調するために、このようなバランス調整を施したのかなと。
あにもに:黒江の存在も、今後大きな意味を占める気がしています。黒江をストーリー上で絡ませるためには何かしらの理由付けが必要になってくるわけで、ひとつ当然思い浮かぶのはいわゆるマギウスの翼における黒羽根をめぐる問題です。これは原作でも描こうとしていたことのひとつですが、要するに黒羽根は持たざる者の集まりですよね。魔法少女の中でも弱い存在で、孤立しているとすぐに倒されてしまうな弱者である、ということが繰り返し原作では描かれています。この弱者と強者のテーマは確実に『マギレコ』の主題のひとつです。今ゲームで展開している第2部「集結の百禍編」の話にしてもそうです。
北出:Cパートではゲームの第2部から登場する宮尾時雨が黒羽根として出てきましたよね。時雨はそもそものパーソナリティとして自己肯定感が異様に低く、自分のアイデンティティを他人に仮託してしまいがちな人物として描かれているキャラクターです。
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-』
1話「みんなでなら魔法少女になれる気がしたの」
あにもに:そういう意味ではまさに黒羽根らしい少女で、時雨を登場させたことは本当に決定的です。つまり、「黒羽根の話をきちんとやる」ことの証左です。原作でも描かれはしましたが不完全燃焼だったので、それをあらためて描いてみせるという力強い宣言のように感じました。
北出:泥犬総監督がインタビューで、ゲームの第2部で展開しているテーマを先取りして第1部の映像化である『マギレコ』のアニメに組み込む、と言っていました。それが何を指しているのか分かりませんでしたが、時雨が描かれたことによって、まさにそれが黒羽根の問題なんだな、と感じました。
あにもに:黒羽根をめぐる問題は、原作をプレイしていたときも相当強く感じていて。ゲームのシステム上ある種仕方がないとはいえ、黒羽根が雑魚敵として大量に出てくるわけです。それをプレイヤーがばったばったとなぎ倒していく進行は、どうしても違和感が拭えなくて「黒羽根もいろはたちと同じ魔法少女なのだから、そんな風に倒して行って本当に良いのだろうか?」と思ってしまうんですよね。いろはが黒羽根と話すときの論理は強者の論理としての側面がどうしてもあるわけですし。
ab:たしかにゲームでは、その問題はあまり掘り下げられずに終わってしまいました。
あにもに:やちよさんに対比される形で描かれるみふゆの存在などはまさに弱き者の象徴的存在でした。黒江もまた同様でしょう。
北出:物語の必然として、やはり名前を与えられた時点で「選ばれし者」なんですよね。さすがに名無しでは話に絡ませられないから「黒江」という名前が与えられていますが、これが名字なのか名前なのかも分からないままですし、スタッフのインタビューによれば、公式的にも確定させるつもりはないようです。つまり彼女は「黒羽根的なもの」の代表ということなんでしょう。
あにもに:そうした「黒羽根的なもの」の象徴として黒江が存在するのであれば、単純に弱者である彼女を倒して一件落着、というわけには絶対に済まされないですからね。1st SEASONでまったく姿を見せず、いつの間にかマギウスの翼に入っていたという展開は、かえって彼女のパーソナリティをよく表しているのではないかと思っています。
ab:放送直前特番で、2nd SEASONは「魔法少女VS魔女」ではなく、「魔法少女VS魔法少女」の展開がメインになってくるという話もされていました。あれは誰が言っていたんでしたっけ?
あにもに:泥犬総監督のコメントだったと思います。「2nd SEASONは、魔女ではなく魔法少女の集団との戦いになってくる」とコメントを寄せていました。
ab:それならば必然的に黒羽根問題はやらなければならないでしょうね。
あにもに:『マギレコ』2nd SEASONでは扱えるテーマがもちろん時間的に限られているわけで、個人的にもうひとつ扱って欲しいのが神浜をめぐる東西問題です。おそらく東西問題は2nd SEASONではオミットされるのではないか……という予感がします。
北出:神浜の東西問題は……そもそもようやくゲームの第2部の展開で本格的にやっているくらいですから。
あにもに:その辺を上手く絡ませることができれば群像劇的なところも描けて良いと思うのですが……。アニメでは原作が持っていた群像劇的側面が描き切れていないというか、政治的策略が張り巡らされたシマ争いの部分が削ぎ落とされている印象があるので、そこはもったいないなと思います。
北出:前日譚にあたる原作のイベントストーリーの「呼び水となりて綻び」をアニメでやるわけにはいかないですからね(笑)。
あにもに:例えばCパートで時雨を徹底的に締め上げるやちよさんの描写は実は恐ろしいほど政治的です。やちよさんが「マギウスの本拠地はどこ」と同じことしか言わないので若干ネタ扱いされてしまっていますが、神浜の東西問題を知っていればあのシーンは冗談では済まされないです。やちよさんに尋問されているときの時雨の心情をいろいろと想像してしまう……。
北出:そういった歴史的背景や事情を知らない人からすると、今のやちよさんの姿は「大切な同居人の女子中学生を奪われた19歳女子大生」くらいの認識でしょうね。
あにもに:とんでもなく政治的なことが起きているものの、アニメだけだと今のところはそれは分かりづらい。そういった政治的背景よりも彼女の想いの方に重点が置かれているということで、その制作上の判断は概ね間違ってはいないと思うのですが……。あと黒羽根は東出身の魔法少女が多い問題もありますよね。つまり、神浜では地域毎の文化的・経済的格差が著しく広がっている舞台として設定されているということです。
北出:「東」と「西」の違いを映像として上手く描けていない問題は1st SEASONの頃からあると思います。一応、1st SEASONでいろはがフェリシアと初めて出会うシーンは、廃墟のようなシャッター街でしたが。
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』6話「なんだってしてやるよ」
あにもに:1st SEASON 6話の「フクロウ幸運水のウワサ」の回ですね。あれは原作では西側の参京区が舞台でしたが、アニメでは東の工匠区に舞台がわざわざ変更されていました。そこで東の危険性がほのめかされていたので、意図的な改変だとは思うのですが、そこが正しく伝わっているかどうかと言えば……。
北出:ここで言及しておかなければいけないと思うのが、1st SEASON 9話のときにツイッター上でも話題になっていた、「神浜セントラルタワー!」というセリフです。
あにもに:ありましたね(笑)。「ひとりぼっちの最果て」の出口が神浜セントラルタワーにあると推察する際のセリフですが、建物名も地理も距離感も何も事前に提示されていないので、何が何やら理解出来ない場面です。あそこはさすがに視聴者を置き去りにしていて、構成が失敗していると言わざるを得ません。
北出:あの場面に象徴されますが、アニメでは神浜の空間が地理的にどうなっているのか上手く描けていない。一方ゲームだと、ストーリーを進めている途中で、たまに画面上に地図が表示されます。
あにもに:ゲームも最初の方は地理関係がいまいち分からなかったのですが、中盤で地図が出てきて段々と全容が明らかになる形式でした。
北出:アニメではカットの切り替えだけでそれをやろうとしていて、しかも「シャフト文法」で間を飛ばしていってしまう。独特の演出技法が悪い意味で作用してしまっている事例と言えます。
あにもに:シャフト空間の地理的な繋がりが見えづらいということですよね。
北出:ええ。そして、神浜は「東」と「西」がなだらかに接続していることがポイントだと思うんです。物理的には『進撃の巨人』のように壁で区切られているわけではない。東に住んでいるけれど、西の学校に通っている魔法少女がいたりするので、要は意識の問題です。東に住んでいる奴はなんとなく怖そう、といった先入観が、人的な交流もあるからこそ問題となるわけですが、シャフト的な空間の作り方は連続的ではなく、離散的で点描的です。だからこそ神浜が抱えている「意識の壁」が描けていない。
あにもに:たしかに地理がまったく見えてこない問題はありますね。『まどか』では舞台が見滝原のみだったので地理的な関係性はあまり問題にならず、逆にシャフトの演出が効果的に働いていた事例だったと思いますが、『マギレコ』はまず街が舞台として設定されていますからね。
北出:『まどか』でも杏子の住んでいる風見野市について言及はありましたが、最後まで名前しか出てきませんでした。
あにもに:『叛逆』でほむらと杏子が見滝原から風見野に移動しようするシーンがありますよね。2人がバスに乗って見滝原の外側に出ようとするシーンです。あの一連のシーンにおいても結局「物理的に行けない」ことが描かれるわけです。
北出:空間の連続性が失われているということですね。
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』
あにもに:実際にバスが走行しているシーンを観ても、位置関係がまったく分からない。一面真っ赤な空間にバスが1台走っている抽象絵画のような画が提示されるのみです。ここは文句なしに素晴らしいシーンですが、こうしたシャフト空間の問題点は他作品でもよく指摘される点ではあります。シャフト独特のカット割りと相性が必ずしも良くない作品など……。
北出:そう聞くと僕は『メカクシティアクターズ』(2014年)を思い出します。
あにもに:『メカクシティアクターズ』も舞台演出的な方に意図的に振り切っていましたね。
ab:あとは『それでも町は廻っている』(2010年)とか……。
北出:今名前が挙がった2作とも、いずれも街が舞台です。街やそこに住んでいる人たちの群像劇を、シャフト的な空間の切り取り方では十分に描けないのではないか。
あにもに:僕は『それでも町は廻っている』は擁護したい気持ちがあるのですが(笑)。
ab:悪い意味で言っているわけではないです(笑)。例えば、『ひだまりスケッチ』(2007年)の場合も、4コマ漫画が原作とはいえ、「ひだまり荘」と「やまぶき高校」の位置関係以外、「正の湯」などは記号として描かれていますね。
あにもに:群像劇のテーマでひとつ懸念しているのは、『まどか』と『マギレコ』のテーマの対比を考えた際に、わりと無条件にチームとしての側面を礼賛してしまわないか、という点です。集団性の誤謬は『マギレコ』のゲームの方でも描かれていましたが、あまりそこに囚われすぎると良くないなと思っています。単純にチームで言えば、マギウスにも同様に条件としては当てはまるわけですからね。
北出:そこはみかづき荘でいえば二葉さながポイントになるかなと思います。さなは一番最後に加入するし、そもそも原作の第2部の時点でもまだやちよさんに「二葉さん」と呼ばれているくらいで。集団に包摂されているように見えつつも、常にどこか疎外感を感じているようなポジションなので、そこをアニメでどう動かしてくるかは気になりますね。
ab:まだ今の時点ではやちよさんにマグカップのコースターは渡せていないですからね。さな発案のイベントは途中でみふゆが割り込んできて中断されてしまいました。
北出:1st SEASON 11話で、さなが「サプライズ大作戦」とノートに書いているカットがわざわざ映されるんですよね。中断されたコースターのイベントをもう一度やり直すという、やはり「結び直し」のテーマがここでも活きてくる気がします。
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』11話「約束は午後三時、記憶ミュージアムにて」
あにもに:マグカップは非常に重要な小道具のひとつですからね。特に『マギレコ』の1st SEASONでは、疑似家族的なるものを描くにあたって「食事」をめぐる主題がかなり意識的に打ち出されていました。そういう意味でもさなの「サプライズ大作戦」は今後最重要イベントのひとつだと思います。
【今後の展望】
あにもに:今後アニメに出てきて欲しい、あるいは活躍を見てみたい魔法少女はいますか?
北出:推しキャラ談義みたいな話になってきた(笑)。
ab:僕は矢宵かのこです。きのこの子です。彼女の「魔法少女ストーリー」では他の魔法少女と違ってコメディ調で描かれており、そういう魔法少女がいても良いのではないかと思いました。ただ本編では出てくるチャンスは無いかなと……。
北出:ラジオのハガキ職人としては存在が示唆されていましたが。
ab:1st SEASON 8話ですね。もっと出てきて欲しいです。かのこの立ち位置はある意味で早乙女先生の魔法少女バージョンだと言えるかもしれません。
あにもに:僕はみたまさんが好きなので、もっと出てきて欲しいです。こちらも望み薄かもしれませんが。
ab:いやいや、みたまさんは今後も出てきますよ。PVにもいたじゃないですか!
あにもに:僕はみたまさんの「魔法少女ストーリー」が好きなので……。
ab:それは……。
北出:みたまさんは『ウマ娘』で言えばたづなさんポジションですが、彼女の願いを踏まえると、どうして我々はこのゲームをプレイできているのか? というところにまで思考が及んでしまう。にこやかに接客してくれるけれど、彼女の存在自体が『マギレコ』というゲームが成立していること自体の不穏さみたいなものを象徴している。
あにもに:それとパーソナルな話になってしまいますが、僕は十咎ももこが大好きで。
北出:PVでは白羽根のフードを被ってましたね。
あにもに:原作のメインストーリーをやっていた頃からももことやちよさんの関係性が好きで、カップリングでいえば一番好きかもしれないです。ももこがいろはたちと話しているときに、やちよさんのことを「あの人」と呼ぶのがすごく好きで……。
北出:巨大感情ですね。
あにもに:ただアニメでは見せ場があるのかな? と少し疑っています。身も蓋もない言い方をしてしまうと、ももこたちをストーリー上から完全に排除してしまうことも脚本上できないわけではないですからね。
北出:ももこがマギウスの翼に入ってしまったことで、ももこ推しの人は結構意気消沈している様子が見受けられたんですが、あれはかえでを救うためのフリかなと。ただ一方で、まさにコラージュというか素材の引用といった意味で、ゲームの第1部オープニング詐欺問題があります。
あにもに:あ、ゲーム第1部のオープニング! いろはに切りかかるももこの描写のことですね。
北出:そして、倒れているかえでと闇堕ちしかけているレナのカット……。
あにもに:結局全部ゲームでは描かれなかったシーンでした。
北出:不吉なカット3連発ですが、倒れるかえでの描写は1st SEASONでオリジナル要素として追加してきたじゃないですか。
あにもに:5話Cパートでかえでがドッペルを発動するシーンですね。あれには驚かされました。
北出:かえでのカットをすでにやっているということは、ももこ推しの人は覚悟しておいた方が良いかもしれません。もしいろはに斬りかかるあのカットを回収してくるなら、ももこのマギウス入りにも何かしらの理由があるということになる。
あにもに:マギウス入りした意図は分かりませんが、たしかにいろはとの戦闘シーンが観たくないかといえば嘘になります。
北出:「やちよさんの側にいたかったのはアタシなんだよ!」、みたいな。これは冗談ですが(笑)。
あにもに:元カノ今カノ問題がさらに複雑なことに……。
北出:七海やちよは罪な女ですよ。
あにもに:2話からどうなるんですかね。当然やちよさんは出てくるにしても、どう展開していくか想像がつかないのですが。
ab:2話のカットはPVに出ているはずなので、やちよさん対みふゆの戦闘シーンはあるでしょうね。
北出:やちよさんが2nd SEASON中ずっとバーサク状態だったらどうしよう。
あにもに:PVにもありましたが、やちよさんのあの禍々しい変身シーン!
北出:あの暗黒感はヤバいですよね。
ab:あれを観たら1話でやると思うじゃないですか。それがまさかの1話ではなかった。早く2話が観たいです。
北出:このクオリティのアニメーションが毎週観られるのはものすごく贅沢です。
あにもに:一週間が待ち遠しい一方で、ちょっと情報量が多すぎて頭がパンクしてしまいそうです。
北出:単純に空白になっている部分があって、そういう意味では情報量が不足しているとも言えますが、総体としてはむしろ多く感じる。ゲームと同じ部分も一方であるから絶妙なバランスなんです。
あにもに:今回で言うとねむのシーンがまさにそうですね。新たに付け加えられた一言によって差分が無限に発生している。
北出:そう、あの一言だけで情報量が跳ね上がる。
あにもに:そのコントロールの仕方が上手いですよね。単に見ていると見落としがちな情報も多いので、わりと集中力と洞察力が必要な作品です。
【おわりに】
北出:『マギレコ』は今まさに「この世界」を一番描いている作品なのに、語る場があまりないというのが本当に……。
あにもに:十分に語られ尽くされていない感じがしますよね。10年前ほどリアクションがなくて寂しいというか、従来の『まどか』ファンがまだまだ身を潜めている気がする。
北出:この世界にも魔法少女はいるかもしれないとか、そういう話は『まどか』の頃から言われていましたよね。それこそ批評系っぽい人たちはキュゥべえのようなシステムは資本主義だったり、あるいは当時の時勢に重ねて原子力のメタファーであるとかいろいろ言っていて。
あにもに:キュゥべえの勧誘を営業といった言い方をするのはまさにそういった含みがありますよね。現実そのものの写し絵。そういった世界で生きていく、どう生きていくかといったことをやっているのが『マギレコ』です。
北出:『まどか』の放送から10年経って、現実では様々なレイヤーで分断が進んでいて、コロナもオリンピックをめぐる状況も混迷を極めていて。もしかつて『まどか』に現実を読み替える何らかの可能性を見ていた人たちが、「この現実」に対してSNS上で憂いを吐露しているだけだったとしたら、あまりにつらいと思います。彼ら彼女らにこそ、ぜひ『マギレコ』を観て欲しい。
あにもに:社会評論的に「分断が進んでいる」と言うだけであれば、ほとんど何も言っていないに等しいですからね。むしろ分断は最初からずっとあって、そこからいかに先へと進んでいくかを考える必要がある。
北出:2021年に鹿目まどかが、「あきらめなきゃいけないようなことなんて、まだ何も起きてないよ」と言ってくれた意義の大きさたるや! 今回見滝原組を中心に描かれた「ちゃんとお互いの目を見て話そう」というテーマも然り、今まさにアクチュアルな問題に対する応答がそこにありますし、それが10年の時を経て描かれたのも『マギレコ』というプロジェクトがあったからこそです。よければ今日話したようなことも念頭に置きつつ、ぜひ多くの人にアニメを楽しんで欲しいなと思います。
あにもに:今からゲームのストーリーを追っていくのはかなり大変だと思いますが、今回の『もにラジ』を通して少しでも『マギレコ』の魅力が伝われば嬉しいですね。本日はありがとうございました。
『もにラジ』の過去回は下記リンクにまとまっています。