もにも~ど

シャフトに関係するものと関係しないものすべて

『もにラジ』第3回「『傷物語』と現代日本の傷痕」

シャフト座談会シリーズ『もにラジ』第3回の収録が5月某日行われました。今回はゲストにアーティストの水野さん(@potatovirusXXXX)をお招きして、これまでの『もにラジ』とはまた異なったアプローチで2016年に公開された映画『傷物語』の持つある種の奇妙さについて雑談しました。
お便りとファンアートはあにもに(@animmony)のDMまで。どしどし募集中です!

また、6/26(土)にアニメ批評同人誌『アニクリ』主催の「同人批評を読む会」配信にて、自分の書いた『傷物語』論が取り上げられました。私の論考に批判的検討が加えられているほか、本記事にも関連する追加論点が提示されていますので、併せてご確認頂ければと思います。アーカイブは以下の動画より視聴できるようです。

 

◆参加者プロフィール

f:id:moni1:20210626035406j:plain 水野 柚子桜大@potatovirusXXXX

美大に通ってるオタク。 まだ何も知らない。

f:id:moni1:20200721220522p:plain あにもに@animmony

シャフトアニメを今日もびりっと観るオタク。目が回る~。
ハートのプロミス、愛と言えるほど信じて…。

【自己紹介】 

あにもに:本日はよろしくお願いします。今回の『もにラジ』では主に尾石達也監督の映画『傷物語』(2016年)についてお話を聞いていきたいと思います。まずは簡単に自己紹介をお願いしても良いでしょうか。

水野:水野幸司です。東京藝術大学の先端芸術表現科2年生です。よろしくお願いします。

あにもに:いきなり個人情報が全力開示されてびっくりしました。水野さんは生粋の尾石ファンとのことで……。

水野:そうですね(笑)。といっても、この場で「生粋の」尾石ファンを名乗るのはとても恐縮ですが...….。自分の所属している先端芸術表現科では受験するときにポートフォリオといって、自分の作品をまとめて大学に提出したのですが、僕は受験期の作品を『傷物語』にかなり寄せました。ポートフォリオで使用したカラーは『傷物語』の色彩をサンプリングしたり、レイアウト構成も尾石作品っぽく組み立てたりしました。あにもにさんとは大学入学前からツイッターのDM上などでいろいろとお話しましたよね。

あにもに:最初に知り合ったのは2年くらい前でしょうか。ポートフォリオの話を聞いて実際に見せてもらった際は心底驚いた記憶があります。現在大学生ということですが、『傷物語』は封切り当時に劇場で鑑賞された感じですか?

水野:実は全部リアルタイムで観に行っています。当時自分は中学3年生で高校受験直前だったのですが、「鉄血篇」は公開初日チケットが取れなくて挫折して、2日目に観に行きました。「熱血篇」と「冷血篇」は両方とも初日に観ました。

あにもに:中学生のときに観られたんですね。ということは『化物語』(2009年)はさすがにリアルタイムではないですよね。

水野:リアルタイムじゃないです。中学2年生の頃に初めて観ました。そこからひたすら〈物語〉シリーズを追っていった記憶があります。

あにもに:それでハマっていった感じですか。水野さんは一時期ツイキャスで毎週のように『傷物語』について語るラジオをやられていましたよね。文字通り毎週『傷物語』の話をしていて、ようやく違うテーマが来ると思ったら、今度は『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』(2013年)の話をしていて笑った思い出があります。

水野:やっていましたね(笑)。あれは楽しかったので、またやりたいです。

あにもに:水野さんはアーティストとして本名でツイッターで活動されているので、ネットで名前で検索すると学展の大賞を受賞されたときの美術手帖の記事などが出てきたりします。そのときのインタビュー記事ではご自身が影響を受けたサブカルチャーの話などをされています。

水野:まさに高校1年生のときですね。美術をちょっとずつ勉強し始めたときに、まだ理解も浅かったのもあって『傷物語』を観て、「こっちの方が面白いな」とか思っていました。当時「メディウム・スペシフィティ」とか、一方で「リレーショナルアート」とか、なにそれ、おいしいの?状態だったので、現代美術の作品を見てもいまいち興味が持てなくて、それよりもアニメの方が百倍面白いだろう、と。ただの厨二病です(笑)。

あにもに:傷物語』が美術に勝った!

水野:もちろん今はアニメ/美術といった単純な二項対立では捉えていませんし、またそこにある問題はそれこそゼロ年代から10年代に美術や批評の世界でかなりやられた議論だったと思います。ただ、学校やコンクールの中ではやはりそういう区別が依然としてありました。僕の出展した「学展」もそうでした。当時の僕は五十嵐大介、大友昇平、寺田克也劇団イヌカレーなどのクリエイターがマネやセザンヌよりもずっと輝いて見えていたので、それなら自分はアニメや漫画に寄せるか、といった感じで絵を描いていました。そういった部分は実は今でもあります。世界を変える為に必要なのは鉛筆一本と紙一枚あれば十分、みたいな。そういう時期に『傷物語』を観ました。僕にとって自分が見ていたアニメと文学がつながったのはそれがきっかけだったと思います。文学との出会いみたいな……。

あにもに:アニメではなく、文学との出会いですか?

水野:傷物語』はある側面では非常に文学的な構造を持っていると思ったんです。大学に入ってから文学や文芸批評を読むようになり、そこから今まで観てきた作品がどういう問題構造を持っていて、どのように応答してきたのかなども学んでいきました。

あにもに:なるほど、文芸的な問題意識に貫かれているということですか。今回はその辺りも含めて、『傷物語』をめぐるさまざまな問題についてあれこれお話をお伺いできればと思います。

 

【震災後として】 

あにもに:はじめにお互いの認識として前提を確認しておきたいのですが、『傷物語』はきわめてポスト震災映画として位置づけられる作品ですよね。ここで言う震災とはもちろん東日本大震災のことです。

水野:間違いなくポスト震災映画ですね。尾石監督もパンフレットのインタビューで「これからの日本で生きていくこと」を意識した舞台設定と語っていることもあり、そこに関しては揺るぎようのない事実だと思います。

あにもに:演出の鈴木利正さんも『傷物語』は「震災後の日本」を表現していると証言していました。しかしながら、『傷物語』が公開された2016年は、『君の名は。』や『シン・ゴジラ』といったポスト震災の想像力で作られている大作映画が出てきた年で、その影に隠れてしまってか分かりませんが、これまで『傷物語』の震災映画としての側面はあまり注目されてきませんでした。

水野:2016年はアニメーション映画にとって転換点です。

あにもに:もちろん『傷物語』は西尾維新の原作があって、それ自体は2008年に書かれたものなので、ただちには震災以後の想像力としては結びつかないかもしれません。しかし、実際に映画を観てみると、本作はどうしようもないくらいに震災映画です。『傷物語』を震災映画たらしめている要因についてですが、水野さんはどこら辺にアクチュアリティを感じ取りましたか?

水野:分かりやすい例を挙げるならば、「冷血篇」で描かれる阿良々木とキスショットの戦闘シークエンスは顕著です。最終決戦が国立競技場で繰り広げられて、オリンピックの競技を模しているところなどからは鮮烈にアクチュアリティを感じます。「日本選手団の入場であります」と1964年東京オリンピックの開会式のラジオ音声が流れた瞬間、泡を吹きそうになりました(笑)。

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傷物語〈III 冷血篇〉』

 あにもに:僕もあそこで震えが止まらなかったです(笑)。あのラジオ音声は新規で撮り直しているものらしいです。

水野:あのシーンでオリンピックのイメージが直接的に強く想起されます。しかもこれから行われる東京オリンピックと同時に、かつてあった東京オリンピックのイメージが重ねられます。

あにもに:ある種の神話として語り継がれているイメージです。あそこのシーンで否応なく『傷物語』が描くフィクショナルな世界と現実の現代日本が接続されることになります。

水野:そしてそれに連なる形式で、丹下健三の建築物が物語の中に舞台装置として使われます。

あにもに:国立代々木競技場や山梨文化会館、香川県庁舎などをめぐる一連の丹下建築の引用のことですね。傷ひとつ付いていないような新築のような質感で、これもまたどこか違和感があるなと思いながら観ていました。

水野:これも尾石監督がインタビューで言及していたことですが、『傷物語』においては「日本」がテーマになっていて、その「日本」を象徴するものとして丹下建築が出てくるということです。丹下建築はきらびやかだった頃の日本の建築であり、ただきらびやかなだけでなく、それがまるで墓場のような、墓標のようなものとして映るように見せたかった、と尾石監督は言っています。

あにもに:正確に引用すると、「華やかなりし日本」の象徴であり、「巨大な墓標」と言っていますね。

水野:まさに借物の表象と言えます。『傷物語』ではそういったものを墓標のように見せるための演出が至るところに仕組まれています。いろいろな仕掛けを総合していくと、かつて高度経済成長期で盛り上がっていた時期の日本の廃墟/墓標としてのイメージが浮かび上がり、そしてそういうものがある種の次元で現代に回帰してくるものとして映画を読み解くことができます。それがどうして回帰するのか、あるいはどのようにして回帰するのか、ということが本作のひとつの大きなテーマになっているように思います。

あにもに:映画版は西尾維新の原作を現代日本の物語として再構築したということになると思うのですが、原作の物語をそのままに、尾石監督のアニメーションの美学と共に監督の思想が組み込まれているように見えます。

水野:あにもにさんがいま、「美学」という言葉を出されましたが、尾石作品の場合、この「美学」という言葉が意味するレベルは二つあって、一方は通俗的な意味における「美学」。そして他方で芸術哲学としての「(分析)美学」があります。基本的には前者における美学の話がされますが、『傷物語』に関しては分析美学の視点からの議論も気になるところです。僕の手に余るところなので今回は差し控えますが、考証に値するテーマにはなりうると思います。社会の話をするならば、日本は2011年の東日本大震災以降、来たる東京オリンピックのことを「復興五輪」と呼び始めるようになって、その後に2025年大阪・関西万博も誘致することで、ある大きなシナリオを構想しようとしています。

あにもに:過去の歴史の反復性のことですね。

水野:かつて演じられたシナリオはこうです。東京オリンピック第二次世界大戦で敗戦して廃墟になった東京/日本を復興させるための儀式としてあります(ここで日本の復興が東京の復興にすり替えられていることも問題なのですが今回は置いておきます)。そこからさらに1970年に大阪万博があって、希望のテクノロジーとしての原子力発電があったり、大阪万博を象徴するモニュメント、あるいはなってしまったというべき岡本太郎の『太陽の塔』(1970年)があったり、輝かしい未来へと向かう一連のシナリオが存在しました。その呪術的とも言うべき儀式的なシナリオを、自覚的か無自覚的か反復させようとする欲望の動きが現代の日本社会で起きているわけです。

あにもに:それは本当にそうですね。震災以後ここまで同じストーリーが企てられるとは思いませんでした。あまりにもあからさまなので、やや鼻白む思いです。

水野:政治分析とか社会批評とかそういう小難しい話以前に、現代の日本を生きる若者の肌感覚として、「1960年代の亡霊」のようなものが現代に回帰してきていて、私たちに取り憑いているような、そういう感覚を『傷物語』を通して自分は感じ取りました。そのことが『傷物語』をポスト震災映画として感じさせる大きな要因のひとつだと思います。

あにもに:「1960年代の亡霊」というのは水野さんのキーワードですよね。尾石監督が劇中に入れ込んださまざまなオマージュやパロディなどの仕掛けをその方向性から語り直すことができる。また、『傷物語』が2020年東京オリンピックを意識した映画であるというのは、非常に重要な指摘だと思います。東京オリンピックIOCの総会で正式に決まったのは2013年の話です。これは当たり前の話ですが、尾石監督は2013年以降の視座から日本について思索をして、物語を現代的に再解釈したと言えると思います。

水野:イメージボードや絵コンテなどを具体的に作り上げていったのもその時期でしょうね。

あにもに:ひとつ僕自身が問題意識として持っているのは、たしかに『傷物語』は戦後日本の経済成長や東京オリンピックをめぐる神話をベースに作られているとは思うのですが、その歴史性と、劇中に多用される日本的なるもののイメージなどは、簡単には結びつかないだろうということです。尾石監督のインタビューをただ鵜呑みにするのもあまり良くないというか、たしかにそういったことが描かれているのは事実ですが、実際に映画を観てみると、それ以上のイメージの事態が展開されており、単に尾石監督の言葉を引用してみせて説明できる範疇を超えていると思えてなりません。

水野:かりにそうだとしても、そこで阿良々木とキスショットが国立競技場で戦うことの意義であったり、そもそも、1960年代の都市空間とともに現れるキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードとは一体何者なのか、といった根本的なテーマは依然として存在しますよね。

あにもに:「日本がテーマだから東京オリンピックで国立競技場が登場する」ではトートロジー的で何も言っていないに等しく、事態はまったく済まされないと思います。例えばですが、これは素朴な疑問として、祝祭としてのオリンピックのモチーフを借用するならばそこには当然日の丸以外の世界各国の旗がなければやはり不自然でしょう。市川崑の記録映画『東京オリンピック』(1965年)でも冒頭のショットでは世界中の国旗が映し出されますよね。それが日の丸だけで構成されて、しかもひたすら劇中で反復される光景は、あまりにも違和感があって、フロイト的に言うならば一種の「不気味なもの」として表現されていると思います。

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傷物語〈III 冷血篇〉』

水野:日の丸の不気味さはありますね。

あにもに:ここら辺も尾石監督が言うところの「巨大な墓標」のイメージに連なってくるところだと思います。たしかにかつての東京オリンピックは輝かしい日本の歴史/記憶だったかもしれませんが、オリンピックのみならず高度経済成長がもたらしたさまざまな社会的問題や弊害をわたしたちは十分過ぎるほど熟知しています。もしくは、現代性でいえば特に平成生まれであるわれわれにとっては、失われた30年という言葉が示す通り、現実に対して「ぼんやりとした不安」しか知らない世代と言えます。

水野:僕たちそんなに年齢は変わらないですからね。また、「ぼんやりした不安」しか知らない世代というのは、阿良々木にも当てはまります。阿良々木もかつてのオリンピックは経験しておらず、僕と同じようにひょっとしたらオウム真理教地下鉄サリン事件以降の世代かもしれません。『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)のリアリティすら共有していない世代の少年から見て一体どのようにいまの日本が見えるのか。

あにもに:これは『傷物語』のストーリーにも関わってくる話ですが、映画の冒頭で「吸血鬼にまつわるこの物語はバッドエンドだ」と結論があらかじめ提示される通り、本作は決して手放しで受け容れられるような話ではありません。むしろ始まる前から失敗が確約されている物語です。このどこまでも煮え切らない物語に、日本をめぐるさまざまな視覚的モチーフが総動員されて作られたことの意義を今一度立ち止まって考えなくてはいけないと思います。

水野:少し考え過ぎかもしれませんが、いまあにもにさんが言われたように『傷物語』が回想の形式で描かれるということは、ストーリー上重要な意味を持つでしょうね。つまり『傷物語』はある種のトラウマの形式で語られる。そういう意味で、それ以降の〈物語〉シリーズのひとつの主題でもある「青春群像劇」的側面とは異なる次元の語りになるわけです。

あにもに:トラウマは言い得て妙ですね。阿良々木は春休みの出来事を語りたがらない素振りを本編で常に見せていますし。阿良々木が最後にモノローグで語る「決して癒え​ない――僕達の、大事な傷の物語」とは同時に「言えない物語」でもあるということです。

水野:日本のサブカルチャーの歴史を見てみると、日本は第二次世界大戦や震災、大きな事件などで受けた傷に対してフィクションの回路を通して向き合ってきたところがあり、それこそがサブカルチャーの力だったわけです。『君の名は。』や『シン・ゴジラ』もそうです。ただし、『君の名は。』では震災をあたかも忘却するようなストーリーになっていたり、『シン・ゴジラ』では破局を小さく描き過ぎてしまっていたり、両作品ともさまざまな問題が存在します。その点において『傷物語』は本当にいびつな終わり方です。最後に流れるサウンドトラックのタイトルは「みんなが不幸になる方法」です。これはあにもにさんが『アニクリ』に書かれた『傷物語』論にもつながる話ですが、「みんなが不幸になる方法」とは、すなわち戦後民主主義のテーゼでもあります。

 

あにもに:あの劇伴は最高ですね……。

水野:このタイトルは忍野メメが最終的に提案する解決策から取られているものですが、このセリフが示す意味合いはやはり示唆的です。

あにもに:傷物語』は基本的に『化物語』の話をすでに観ている人が観る映画ですよね。それに制作の都合で公開が遅れに遅れた関係もあって、アニメしか追っていない人でもすでに『傷物語』の原作を読んだ人は大勢いたはずです。つまり、そこに至るまでの過程は知らずとも、この物語はキスショットが去勢される話である、という結末を分かった状態で観るわけです。すでに終わった物語、すべてが手遅れの物語をわれわれは3時間近く観せられる、この過剰さも本作を特徴付けるもののひとつです。

【戦後について】 

あにもに:そういえば以前水野さんがゲスト出演されていた『年末配信! 20時間コンテンツ地獄』という配信でも『傷物語』について語っていましたよね。

 

水野:ありましたね。去年の年末のイベントです。開始1時間半くらいのところから喋っています。

あにもに:2020年のオススメのコンテンツを紹介するといった趣旨だったのですが、水野さんは吉見俊哉の『五輪と戦後:上演としての東京オリンピック』と、まさかの僕の『傷物語』論を紹介されていました(笑)。そこで水野さんは『傷物語』は「戦後日本から現代に至るまでの射程を持っている作品」と指摘していて、少し気になったのは、ここで言われている「戦後」という言葉の持つ意味についてです。自分も『アニクリ』の論考で「戦後」という言葉を使いましたが、水野さんが言うところの戦後とはどういったイメージなのでしょうか?

水野:僕の考えている戦後というのは、もう少し幅広く捉えています。どちらかというとアトモスフィア的なイメージです。

あにもに:エートス的な感じでしょうか。

水野:時代精神的な意味合いですね。戦後民主主義の問題ももちろん含まれていると思っていて、かなり広範囲な射程として捉えています。

あにもに:僕の場合は民主主義をめぐる問題意識が念頭にありました。つまり、日本の戦後民主主義をめぐる問題です。

水野:阿良々木の民主主義的身体についての論考ですよね。身体性の表象についての議論は興味深いです。かつてマネが『皇帝マクシミリアンの処刑』という絵の連作を描いて、美術家の岡崎乾二郎がそのことについて論考を書いているのですが、ここでマネが行ったのは近代国家が持つ虚構が孕む問題群を、処刑される皇帝マクシミリアンの身体を媒介として近代絵画の問題群に接続することで浮かび上がらせているということです。借物の表象としての皇帝マクシミリアンのイメージを、絵具やキャンバスという物質に還元することで、代理されているイメージによって隠蔽された出来事としての死を表していると言えます。 

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エドゥアール・マネ『皇帝マキシミリアンの処刑』(1868-1689年)

あにもに:借物の表象という言葉は先ほども出てきましたね。

水野:傷物語』における阿良々木の身体も皇帝マクシミリアンの身体同様、借物の表象と言えます。それがいかなる方法で描かれているかといった問いは今こそ重要な意味を持つような気がしていて…...この辺については冒頭で述べた分析美学の問題にも隣接してくると思います。

あにもに:阿良々木の身体性の問題については自分の論考の中でももっと触れたかった部分ですので、鋭い指摘だと思います。また戦後いえば、水野さんが紹介していた吉見俊哉の『五輪と戦後』ですが、これまず真っ先に紹介すべきは、この本の表紙でしょ!と思いながら見ていました(笑)。

水野:あ!そうです!


あにもに:『五輪と戦後』の表紙は『傷物語』のモチーフとまったく同じですよね。この黒い日の丸とバラバラになった五輪のデザインは、おそらく亀倉雄策東京オリンピックのポスターを引用して反転させたものだと推測しますが、本の内容を素晴らしくよく表していて、批評的な装丁だと思います。しかもカバーを外すと真っ赤な表紙が出てくるという……ネットの悪いオタク風に言えば、「実質『傷物語』」といった感じでしょうか。

水野:まさに現代日本を象徴する感じです。

あにもに:論考の内容も東京オリンピックをめぐるさまざまな社会的、政治的な反復がテーマになっており、都市をある種の舞台として見做して上演論的アプローチによってさまざまな事象を分析しています。

水野:『五輪と戦後』は自分にとって『傷物語』を考える上でヒントになっていますね。

あにもに:『五輪と戦後』では「再演」というのが主題になっていますよね。歴史の反復性とも言うべき、かつてあった問題というのがそのまま変奏されて反復されてしまうことについて、詳細に議論がなされています。残り一ヶ月足らずで二度目の東京オリンピックを目前に控えているわれわれにとっては、かなりクリティカルな論だと思います。

水野:傷物語』では日の丸やオリンピックなどをモチーフとして登場させていますが、単純な肯定としての文脈ではなく、むしろその転倒こそを描いている、という議論をあにもにさんも論考で書いていましたが、その通りだと思います。かつてのオリンピックとは何だったのかといった問いをあらためて立てることは、現在性を検討する上でも非常に大事だと思います。

あにもに:『五輪と戦後』で述べられていたような反復性は、アート的な文脈で言うと椹木野衣の「悪い場所」論でしょうか。日本は歴史性が欠落していて、ただひたすら同じ問題系の反復を繰り返している、という。

水野:忘却と反復ですね。椹木は、日の丸は実際は正円ではなくて、いくつもの中心軸があるようないびつな楕円である、と言っています。また、日本という近代国家それ自体が無理やり作られたものであり、グロテスクなキメラようなものであると『日本・現代・美術』の中で論じていますね。

あにもに:近代という制度そのものが西洋からの輸入品であり、日本は発展途上の「未完の近代」としてあると。

水野:場当たり的に近代国家というものを一気に組織しようとした結果、未熟児というか、継ぎ接ぎのフランケンシュタインのようなものになって、ある種「悪い場所」論は日本の呪いのようなものです。

あにもに:そういえば現在の菅政権がオリンピックのことを「復興五輪」とただでさえ軽薄な言い方を超えて、人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証としてオリンピックを開催する、と発言したのを聞いて、本当に呆れるばかりでした。打ち勝つという表現をしたばかりに、またしてもわれわれは敗戦を経験することになるのか、という。

水野:しなくてもいい敗戦を。

あにもに:復興五輪という呼称もさることながら、コロナウイルスに打ち勝つ証などという壮大な後付によって、紋切り型の言葉が、ますます欺瞞めいた響きを持ってしまう……。

水野:これは与太話ではありますが、『傷物語』は見方を変えれば、というより素直に観れば吸血鬼の物語ですよね。吸血鬼のイメージがどこから生まれたかというと、ひとつ当然考えらるものとしてはペストの恐怖があります。実際、真偽は分かりませんがダニエル・デフォーの『ペスト』(1722年)では街の人が吸血鬼(と言っても今で言えばゾンビに近い存在ですが)を共同幻覚のように見たといった描写があります。新型コロナウイルスとペストの問題が同義というわけでは決してありませんが、疫病の蔓延と吸血鬼の表象を考えると、キスショットが震災後に現れてくるというのはかなり寓話的な話として読むことができます(笑)。

あにもに:2021年の今、『傷物語』ほど現代日本をそのまま映し出している作品はなかなか無くて、新型コロナウイルスが蔓延していて、オリンピックを直近に控えている今この時代にこそ観て欲しい映画です。

水野:しかもそれと戦った結果、最後に選び取るのが「みんなが不幸になる方法」ですからね。

あにもに:「ハンマー・アンド・ダンス」などといった言葉もここ一年あちこちで聞きましたが、畢竟『傷物語』はワクチンを打ってウィズコロナの共生を実現する話として読み替えることもできます(笑)。

水野:疫病の話は置いておくにしても、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(1897年)が描かれたとき、当時のイギリス社会を襲っていたある種の社会不安が吸血鬼的なるものを生んだひとつの要因になっている、という論もありますよね。

あにもに:外部の脅威や侵略される恐怖心などが吸血鬼として表象されているという考え方ですね。吸血鬼や『フランケンシュタイン』(1818年)の怪物でも良いですが、いわゆる「化物」が社会不安の産物であるといった見方は、ある程度説得力を持つものだと思います。

水野:そういう社会的な不安定さが吸血鬼を生み出す契機になり得るといったことを踏まえると、このことは『傷物語』にも応用できそうな話です。尾石監督がどこまで考え込んでいるのかは分からないのですが、少なくとも劇中に登場する日本的なるもののモチーフや震災後の想像力について考えたときに、戦後と現代の問題は避けられないと思います。

あにもに:単純な話、劇中で使用されている日本モチーフは本当に過剰ですからね。とはいえ実は尾石監督の政治信条が単に保守であったというオチでも別に驚きはしないのですが。

水野:オリンピックの開催に賛成なのか反対なのかも聞いてみたいところです(笑)。

あにもに:今の右翼はオリンピック開催賛成派が多いようです。昔はそうでもなかったはずなのですが……江藤淳も相当批判的に糾弾していましたし、まあ、今の平均的右翼が江藤を読んでいるはずはないのですが。

水野:確信を持って言えるのは、尾石監督は映像の観せ方/映像技術においては、こういう並べ方、見せ方をすればどういう効果が得られるのか、といったことについてはきわめて自覚的な映像作家であろうということです。僕たちがこうして『傷物語』を批評的に深読みしているのも、尾石達也がそう言ったからではなく、技術的必然によって意図して作られたとことが明確だからです。そういう意味では、最初に阿良々木が学習塾跡の屋上に出て太陽に焼かれるシーンがありますよね。阿良々木が焼き殺されて、太陽のクロース・アップが映った後に日の丸が出てくる。阿良々木を焼く太陽と、日の丸が重ねられるこのつなぎは批評的です。

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傷物語〈I 鉄血篇〉』

あにもに:人間ならざる阿良々木を焼き殺す太陽と、日の丸という国家の暴力装置としての側面が暴き出されるといった話でしょうか。自分はこのモンタージュについては神代辰巳を想起しました。

水野:神代辰巳ですか?

あにもに:傷だらけの天使』(1974年)の神代が手掛けた話で「港町に男涙のブルースを」というのがあって、ぜひ機会があれば観て欲しいのですが、これも先の大戦が深く影を落としているエピソードです。その中に劇伴として『君が代』が流れている中で登場人物の女性が首を吊って自殺するシーンがあって、そこに日の丸がフェードインで重ねられるというシーンがあるんです。

水野:うわ!

あにもに:あるいは大島渚にしてもそうです。自分の論考の中でも大島の『少年』(1969年)について詳しく言及したかったのですが、あの映画も日の丸がいたるところに登場する政治的な物語です。『少年』は『傷物語』と相当近しい作品だと個人的に思っていて、直接的に参照しているのではないかとすら思っていたりします。ただ尾石監督はそこまで政治闘争的でもないですし、『少年』を観たことがないということも十分あり得ますが……。

水野:いや尾石監督は当然『少年』を観ているでしょう(笑)。『化物語』はヌーヴェル・ヴァーグの影響のもとで作られた作品ですが、『傷物語』はヌーヴェル・ヴァーグの影響を受けた1960年代の日本映画の雰囲気がベースとしてあるらしいので。

あにもに:尾石監督は昔から日本アート・シアター・ギルドの映画やアヴァンギャルドが好きですからね。ただあまり詳しく語っているところは読んだことがないです。そもそもインタビュー記事も少ないですからね。

水野:尾石監督が作品のテーマは日本であると言ったのも「冷血篇」のパンフレットでしか明言していないですからね。あまり多くは語らない印象です。

あにもに:ただ、尾石監督は同じ手付きで現代アートポップカルチャーの領域も引用してみせるので、その辺りの分析も必要になってくるかと思います。

水野:今こうしてあにもにさんと話していて、まだまだ自分の手の届いていない範囲があるなと感じました。自分は日本の映画などはあまり観ていないので、神代辰巳も知らなかったのですが、それを踏まえて観てみると『傷物語』のラストや最初の阿良々木が焼かれるイメージも納得できるものがあります。

【鬱と土地】 

水野:先ほども話しましたが、僕の考えではキスショットは明らかに「1960年代の亡霊」として描かれているように思います。そしてそこには「東京」という土地をめぐる問題が不可分的に絡み合っていると考えています。例えば、キスショットが現れてくるシーンを考えると分かりやすいのですが、急に昔の銀座が風景がまじまじと画面に映し出されますよね。

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傷物語〈I 鉄血篇〉』

あにもに:あそこのシーンは原作を大胆に改変している場面です。原作では銀座なんて一言も書いておらず……。

水野:かなり恣意的なシーンだと思います。そして阿良々木が地下鉄の中に下りていって……これも原作には無い場面です。

あにもに:原作との比較論で考えたみたときに、最大の差異といっても良いのが、この阿良々木とキスショットの邂逅のシーンです。

水野:そこが一番大きいですね。

あにもに:なぜ地下鉄なのか、という問題は検討に値すると思います。常識的に考えれば、原作の描写の方が圧倒的に自然なわけです。暗闇の中に灯りが切れた街灯がいくつも並んでおり、そこに一本だけ灯りがついていて、その下にキスショットが倒れ込んでいる……怪異譚として非の打ち所がない導入です。それにもかかわらず、映画では大幅な改変が加えられています。無人の地下鉄空間が舞台になっていて、それも全面的に照明があたっているようなピカピカの3D空間です。

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傷物語〈I 鉄血篇〉』

水野:物理的に考えて光らないようなところまで光っていますよね。

あにもに:もちろんこのシーンは最高にクールな場面だと思っているのですが、普通に考えれば「吸血鬼には影がない」という設定を活かすために街灯を使って「光があるのに影がない」状況を原作では作り上げているのに、映画版ではもはや影がどうこうといった問題ではないです。『化物語』1話の冒頭で描かれた回想の場面の方がまだ原作の雰囲気に近くて。

水野:尾石監督は「学習塾跡を山梨文化会館にした理由はピンときたから」と言っていて、地下鉄も同様に単にピンときたから説はあると思うのですが、ひとつ考えられるのは、このシーンでモールス信号が流れるじゃないですか。

あにもに:モールス信号ありましたね。「熱血篇」のオープニングではクレジットがすべてモールス信号になっていました。

水野:地下鉄というのはシグナル(信号)が流れる空間ですよね。シグナルが反転したモールス信号の暗号性は、映画それ自体が暗号めいている『傷物語』と重なっているようにも読めます。

あにもに:暗号自体がパッケージングされているということですか。

水野:この暗号性も一個テーマになってくると思います。さらに付け加えるならば、「『熱血篇』は血の物語である」と尾石監督が言っている通り、劇中に登場する日の丸と血のイメージは明らかに重なっています。地下鉄の場面で特徴的なのは、血がいたるところに飛び散っていて、これが日の丸の形になっているという点です。

あにもに:あの図形的でグラフィカルな血痕……。

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傷物語〈I 鉄血篇〉』

水野:図形そのものと言っていいと思います。そして血が映える空間をキャンバスとして考えたとき、アスファルトに血だと日の丸にはなりません。あの白い大理石、真っ白の背景に血が乗るときれいな日の丸になるんです。

あにもに:なるほど、たしかにそうです。

水野:あるいは、1960年代にオリンピックを契機に急速にインフラが整備されていった象徴としての地下鉄のようにも読み込むことが可能です。実際に阿良々木が地下鉄に入っていったときに映る券売機のモデルも厳密には特定できませんでしたが、現在のものではありません。

あにもに:券売機のカットは注目していませんでした。あの駅のモデルは新宿三丁目駅ですよね。映画のオープニングもタイトルバックは西新宿のショットでした。おそらくこれは日本の風景といったテーマにも関わってくる話だと思うのですが、西新宿にそびえ立つ高層ビル群は尾石監督が想像する日本の原風景感があります。昭和のドラマのオープニングなどでも新宿のビルの風景はよく使われていますが、新宿的なるもののイメージが高度経済成長のイメージと結びついているんでしょうね。

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傷物語〈I 鉄血篇〉』

水野:たしかに新宿は存在感が大きいですね。それを聞いていて思ったのですが、〈物語〉シリーズが舞台として設定しているのは基本的に都市郊外です。

あにもに:いちおう現代日本のどこか、という匿名的設定のはずです。原作では土地に関する記号は排していたように思います。

水野:「どこでもないどこか」はひとつ大きなトピックだと思います。あにもにさんはこの前、国立新美術館でやっていた「MANGA都市TOKYO」展は行かれましたか?

あにもに:あ、ありましたね。自分も行きました。個人的にはちょっといろいろと物足りなさを感じてしまい微妙だったのですが……。

水野:僕も微妙だなと思いました。ただ、あそこで面白かった点として、展示の中で「あの作品は東京のどこを描いているのか」といったことが詳述されていたんですが、『美少女戦士セーラームーン』(1992年)とか『カードキャプターさくら』(1996年)とか、あの辺の時代の作品になってくると、厳密にモデルとした実在の場所はありつつも、その言説が一気に弱くなるんです。その代わりに、どこでもないけれど都市郊外のどこか、といったものが現れ始める。その背景には、ニュータウンなどの開発が1980年代くらいから始まって、そこに人が住み始め、郊外的な場所がどんどん広がっていった、という歴史的必然性があると思います。

あにもに:郊外論も一時期ゼロ年代に流行りましたね。

水野:原作で設定されていた「どこでもないどこか」という舞台は都市郊外的なテーマだったと思うのですが、映画版ではそこに恣意的な改変が加えられて「東京」という土地に焦点を当てつつ、新宿駅や銀座の町並みが出てくるようになります。もちろん日本の問題を扱うときに、それがそのまま東京の問題として現れてくると言うのは、問題含みだとは思うのですが。

あにもに:あの地下鉄の駅も東京のいろいろな駅のハイブリッドだったような。

水野:エスカレーターが新宿三丁目駅で、ホームは表参道駅を参考にしているそうです。あとは銀座線の上野広小路駅なども入っています。さらにこの場で触れておきたいのは、シャフト作品では埋立地ベイエリアなど無機質な土地がアニメの中によく出てきますよね。『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』でもすごく印象的でした。僕は都市表象の問題に関心があるので、単に東京という舞台設定だけでなく、その中で埋立地が出てくる点に注目しています。やはり埋立地というのはかなり特殊な土地/空間と言えるので。

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傷物語〈I 鉄血篇〉』

あにもに:たしかに、埋立地は純粋に人工的な空間ですからね。

水野:埋立地というのは、歴史性を欠いていますが、社会的なコンテクストを強く帯びている独特な空間です。『傷物語』にとって埋立地が舞台として設定されることの必然性については、いつかまとまった論考を書きたいです。

あにもに:水野さんに勧めてもらったティモシー・モートンの環境哲学をめぐる論考で、篠原雅武の『複数性のエコロジー──人間ならざるものの環境哲学』を最近読みました。ここに書かれているベイエリアに関する記述がとても興味深かったです。

水野:『複数性のエコロジー』の冒頭には伊藤計劃論も含まれているのですが、『ハーモニー』(2008年)の中で描写される社会に関する記述に関して、篠原自身が生まれ育って感じてきた世界の感覚の水準に一致するものがあると書かれています。その感覚というのをある種の立脚点として、篠原が旅行帰りにふと寄った和歌山県ニュータウンや、幕張ベイタウンの埋立人工都市に関して考察を展開していて、とても刺激的な本です。

あにもに:その中で埋立地というのは、「鬱的な空間」であるといった議論が展開されていますよね。人間の鬱が内在化する病んだ空間として埋立地が存在するという話です。

水野:鬱的な空間というのはアニメの中でも感じ取れますし、『魔法少女まどか☆マギカ』や『傷物語』といった作品を考えてみたときにも共鳴する部分があると思います。どちらも鬱に関連付けることができる作品です。

あにもに:たしかに近年のシャフト作品には、不思議な建築がたくさん登場します。それこそモダニズム建築的であったり、時にはポストモダン建築的であったり、多様に引用してみせています。これは個別具体的な議論が必要だとは思いますが、ひとつ言えるのはそれらの建築が必ず何らかの欲望と結びついているという点です。また水野さんの言う通り、特に最近のシャフト作品では埋立地ベイエリアなどもたびたび登場します。原作付きですが、例えば『3月のライオン』(2016年)などは舞台設定から桐山零のキャラクターまでストレートに当てはまります。やはりどこか鬱的な空間の特徴があるように見えますね。

水野:鬱的な空間としての埋立地は怪異の表象の問題と密接につながっていると言えると思います。『化物語』から通底しているのは、〈物語〉シリーズにおける怪異一般は、都市化が進んでいって郊外やニュータウンが誕生した以降の生に対する感触で描かれているということです。そのことが一番よく表れているのが「まよいマイマイ」の八九寺真宵のエピソードです。

あにもに:たしかに、「まよいマイマイ」はまさしく土地に関する物語です。

水野:まよいマイマイ」はかつてある街に生きていた少女真宵をめぐる話で、彼女は交通事故に遭って亡くなってしまうのですが、死後人間を迷子にさせる迷い牛という怪異になります。そこで阿良々木に取り憑くのですが、その解決策として提示されるものがとても興味深いです。

あにもに:真宵が交通事故に遭った後に行われた土地の区画整理された新しい道を使うことで、迷い牛の影響力が無効化され、無事目的地へ辿り着くことができる、といった話ですね。

水野:土地の区画整理というのは、都市開発によって引き起こされるものでもあります。つまり、怪異譚の中にニュータウン的な都市の問題/特徴が入り込んでいると言えます。そこで描かれる怪異というのも鬱的な空間における手触りが入っているように感じていて。

あにもに:まよいマイマイ」は『化物語』の中でも個人的に好きな話なのですが、その観点はありませんでした。

水野:傷物語』のキスショットも、都市に漂う不気味な感触といったものを象徴している側面があると思います。異様に清潔でヒューマンスケールを超えたアーキテクチャが整然と整列していて、それでいて人間の姿がまったくない。あたかもユートピア的な空気が流れている都市空間が、実はすごく不気味であるということを表現していて、鬱的な空間が展開されていると言えます。

あにもに:シャフト的なモブキャラクターを排除した無人の空間をユートピア的な空間として捉えるということですか。ちなみにモートンはショッピングモールのような巨大でありながら人気の少ない複合施設が持つ特徴をいわゆる「鬱の空間」と指摘しています。

水野:『傷物語』が描くベイエリアはそういった特徴をよく備えていると言えると思います。直江津高校前などはめちゃめちゃ豊洲周辺っぽい風景ですし、実際にラスト付近でもあの辺りが舞台として出てきますよね。

あにもに:夢の大橋ですかね。「つばさキャット」で阿良々木とブラック羽川が戦う舞台にもなっているところです。

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傷物語〈III 冷血篇〉』

水野:その隣には京浜工業地帯があって、イメージ的には川崎辺りだと思うのですが、そこには石油コンビナートがあったりします。僕は高校生のとき、学校帰りに電車に乗って行ったことがあるのですが、あそこは本当に妖怪が出てくるような雰囲気があって、あの辺りの都市の手触りというものが、『傷物語』の都市表象の中に引用されているように感じます。

【亡霊の回帰】 

あにもに:水野さんは「1960年代の亡霊」と言うときに、亡霊という言葉を使っていますが、劇中では亡霊や幽霊といった単語は出てこなくて、基本的には怪異/化物ですよね。あえて亡霊や幽霊という言葉を使っていることには何か意図があるのでしょうか。

水野:幽霊よりは亡霊のほうが僕は正しいと思っています。個人的には僕の下敷きとしてはマーク・フィッシャーがあります。

あにもに:あ、フィッシャーなんですね。ということは憑在論でしょうか。デリダではなく、フィッシャーであると。

水野:立ち返ってくるものとして亡霊です。『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』で個人的にはフィッシャーの言っていることに共感していまして、僕があえて亡霊という言葉を使っているところは、単にデリダの引用ということではなくて、鬱病になった感覚が強くリアリティとしてあるというか、ある種回帰してくる鬱というか、そういう意味合いを込めています。

「Ghosts of My Life: Writings on Depression, Hauntology and Lost Futures 」マーク・フィッシャー(著) 五井健太郎(訳) - リリース情報 - P-VINE, Inc.

あにもに:フランス語では幽霊を意味するrevenantは、「戻ってくるもの」を意味するrevenirという語の現在分詞形ですからね。僕はフィッシャーのその本は飛ばし飛ばし読んだだけなので、まとまったことが言えなくて恐縮なのですが、全体の雰囲気は分かる気がします。

水野:鬱というのは新しい虚無感が常にやって来るものではなく、同じ虚無感が繰り返し再帰するものとしてあります。そういうフィッシャーが現代社会に対して感じている感覚や、全体の文章の鬱屈とした手触りがすごく直感的に分かる気がしているんです。

あにもに:幽霊といえば、柳田国男の妖怪研究とかは読んでいますか?厳密には幽霊とは違いますが、怪異一般の話をする際に……。

水野:柳田的な妖怪議論の問題意識では『傷物語』は十分に語れないと思っています。なぜなら妖怪やお化けは土地や共同体の記憶そのもので。

あにもに:まさに民俗に関わる問題です。

水野:ただ、さっきの話で挙がったベイエリアでいうと、そもそもそこには土地の記憶というものが存在しないので、言い換えれば伝承が存在しないということです。怪異のオントロジーとして、柳田が論じている妖怪とキスショットはまったく違うものとして考えられるので、そこの導線を引くのは正直難しいと思っています。そういう意味で、個人的には柳田よりはフィッシャーに可能性を強く感じています。

あにもに:怪異のオントロジーですか。個人的には一柳廣孝の本などは面白かったです。怪異の問題は鬱の問題とも関係してきそうです。

水野:これは以前あにもにさんともお話しましたが、『傷物語』において最終的に阿良々木は鬱病になったのか、あるいは快方に向かったのか、ということについて話し合って、意見が別れたことがありましたよね。

あにもに:そんな話もしましたね。阿良々木の精神状態の話ですよね。それこそ先ほど挙がったトラウマと密接に関連する話です。

水野:僕はこれをメランコリーの問題として捉えたいと思います。個人的に『傷物語』において「阿良々木は最終的にメランコリーになって終わる」と解釈したのですが、あにもにさんはむしろ「阿良々木がメランコリーであったのはキスショットと出会った時点であった」と言っていて、羽川翼という友人やキスショットとのやり取りを通じて、阿良々木はメランコリーを克服する契機を得た、と考えられていました。ただ、個人的には、アニメで描かれる阿良々木の表情はメランコリーを克服した人間の表情には見えなくて……。

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傷物語〈III 冷血篇〉』

あにもに:「冷血篇」で最後にキスショットに血を与えに行く一連のショットでしょうか。たしかにあのときの表情は快方に向かった人間の顔には見えづらいかもしれないです。阿良々木は正義感と自罰的精神が非常に強いので、本編でもずっと引きずるわけですが。

水野:例えばセリフの水準でも、「殺したくなったら、いつでも殺してくれていいから」と言い放ちます。またアニメキャラクターの表情の表現として、目の下にラインを入れる表情は、やはり何か病んでいるとしか思えなくて。この辺については『傷物語』そのものの解釈に関わるところなので、自分の中の課題ですね。

あにもに:なるほど。結局、キスショットは何者なのか、という最初の問いに結びついてくるということですか。

水野:キスショットを「1960年代の亡霊」として考えたときにオリンピックの舞台であった国立競技場で戦うシーンはまだ分かるとしても、最終的に一緒に生きていくことを選びとるわけです。成功体験とも言えますが、鬱病の原因でもある両義的な亡霊と共に生きていくを選ぶ……そういうことが一体どういうことなのか、ということを問題にしたいんです。

あにもに:鬱というのは、『傷物語』を語る上でキーワードになるかもしれませんね。先ほどティモシー・モートンの話の中でも話題に挙がりましたが、阿良々木の精神分析として重要な意味を帯びるかもしれません。

水野:そういう意味ではやはりフロイトが大事になってくると思います。

あにもに:メランコリーというのもフロイトの著作にありますからね。

水野:メランコリーの話をするときフロイトの場合は「mourning work(喪の作業)」の話をします。例えば、戦後日本において戦争に関しては戦没者慰霊碑などが喪の作業としてありましたが、そのこととは少し違う角度で『傷物語』について抽象的に考えてみたいんです。

あにもに:阿良々木がすべき喪の作業とは一体何なのか、ということですかね。

水野:鬱というのは、基本的に喪の作業が不可能な状態に陥ってなるものです。失った対象というか、自身が何を失ったのか、あるいは何が原因で自分が傷ついたのか分からないような、そんな状態のことを指します。

あにもに:阿良々木がキスショットに血を与え続けると言うのは喪の作業とはまた違いますからね。

水野:それはむしろ鬱病を延命させる行為として捉えられると思います。喪の作業をしているのにますます鬱になっていくような変な感触があります。こうした亡霊と鬱といったテーマを『傷物語』という物語の図式の中で整理して考えることが自分の課題です。

【おわりに】 

あにもに:いま水野さんはシャフト同人誌のために、『傷物語』に関して壮大な論考を準備してくださっているとのことですが、進捗状況の方はいかがですか。

水野:デリダを読んでフロイトを読んで、フィッシャーを読んで柄谷行人を読んで、本当に『傷物語』論を書くのは本当に大変で……。

あにもに:勉強熱心ですね……。

水野:今回、実にとりとめのない話になってしまいましたが、『傷物語』に関する問題は(答えられたかどうかはおいておいて)一通り出せたような気がします。まあ、こういう風に過剰に問題を取り出し過ぎるのはいわゆるサブカル批評においては危険な手付きではありますが...…。頑張ってまとめていこうと思います。

あにもに:もはや卒論になりそうな勢いですね。

水野:本当に卒論になりそうです(笑)。『傷物語』が孕んでいる問題は構造としては今僕が大学で勉強している美術の本来持っていて、今も持っているはずの問題に深く関わっているんです。僕はオタクと言えるほどアニメを見ているわけでもないし、今さらアニメ批評のようなことをやる意義やリスクについても考えてはいるわけですが。

あにもに:批評が引き受けるべき責任の話でしょうか。

水野:特に震災以降このような議論が困難になった現実があったり、またアートの世界に対してサブカルチャーの文脈から登場してきた中心的な人物の一人である黒瀬陽平や彼が主宰した「カオス*ラウンジ」がハラスメント問題を起こしたことによって、この時期に行われてきた議論が有耶無耶になってしまった節があります。ここに関しても一度整理した上でしか、今日においてサブカル批評は成立し得ないということを一度示したいと思います。ただ、自分にとって大切なもので、影響を受けたものに対して誠実に向き合って勉強し、それを引き継ぎ発展させていくことは重要だと思っています。それこそが美術や批評をやろうとする人間の責任だとも思うので。

あにもに:本当に壮大な話になっていますね……。水野さんのお話を聞いて、自分もますます『傷物語』ときちんと向き合わねばいけないなと気持ちを新たにしました。

水野:なので僕はいま粛々と内省と遡行をしている最中です(笑)。

あにもに:ぜひ楽しみにしています。『傷物語』はその重要性に反してあまりにも語られていない映画なので、個人的にはがっつりテクスト論なども読んでみたい気分です。もし興味があるオタクがいれば、ぜひ自分にDMいただけると嬉しいです!本日はありがとうございました。